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【 蹴鞠だけじゃない!?】意外としぶとかった今川家のプリンス・今川氏真、その評価とは?

【 蹴鞠だけじゃない!?】意外としぶとかった今川家のプリンス・今川氏真、その評価とは?

今川義元の息子・氏真というと、和歌や蹴鞠に興じてばかりいたイメージが強いですよね。義元の跡を継いだ氏真ですが、今川家当主としての手腕はどのように評価されていたのでしょうか。現在放送中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」での、井伊家や徳川家康との関わりにも注目しながら、今川氏真についてご紹介しましょう。

ホントのところ、当主としてはどうだった?

今川氏真は、天文7(1538)年、今川義元の嫡男として生まれました。天文23(1554)年には甲相駿三国同盟の一環として、終生の伴侶となる北条氏康の長女・早川殿を娶っています。

早川殿の肖像。氏真の肖像画と対になっているそう。

氏真は、永禄元(1558)年頃にはすでに義元から家督を譲られていたとみられています。というのも、彼の名による文書が発給されているからなのです。そしてその2年後、桶狭間の戦いで義元が討死すると、名実共に正式な今川家の当主となりました。
一般的にはこの後、坂道を転がり落ちるかのように今川家が衰退していく原因になったというイメージですよね。

ただ、今川家の当主として、氏真は今川から離反しようとする国人たちを鎮めようと努力はしていました。知行を安堵する旨の書状を出すなどしたものの、離反者は続出。結果的に氏真は国人らから取った人質を処刑し、かえって反発を招くこととなってしまったのです。

一方、妻・早川殿の縁で、北条氏との関係を維持することに努めましたし、自由取引の市場となる楽市を織田信長よりも早く導入したり、金融業者に債権放棄を命じる徳政を発布したりもしていました。
こうして見ると、当主としてそれなりの政治をしていたことがわかります。

後世の評価は?

「歌人としては、集外三十六歌仙に撰ばれている」

氏真が和歌や蹴鞠をこよなく愛したために政治を顧みなかったという話は、もっぱら江戸時代以降の物語に描かれます。
「甲陽軍鑑」では、「心は剛勇だった」と評価がありつつも、側近の登用に偏りがあり、その専横を招いたとして批判されています。

また、江戸幕府の老中で寛政の改革を行った松平定信の随筆の中では、「足利義政の茶の湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道」が挙げられ、彼らがこれらに没頭するあまり国を滅ぼしたと批評されてしまっています。
政治も行ってはいたようですが、趣味に入れあげたあまりに、評価が低くなってしまったようですね。

井伊家や徳川家康との関わり

義元と共に当主・直盛が討死した井伊家は、直親が家督を継ぎました。しかし氏真は彼の松平元康(後の徳川家康)への内通を疑い、直親が弁明に来る途中、家臣により殺させてしまいます。これにより、井伊家は次郎法師が直虎と名乗って当主となり、直親の息子・虎松は寺にかくまわれて成長し、後に徳川家康に仕えることとなりました。後の井伊直政ですね。

一方、徳川家康は桶狭間の戦いの後に今川から離反し、岡崎へ帰還します。そして武田信玄と手を結び、今川領へ侵攻しました。氏真は掛川城で抵抗するも破れ、妻の実家・北条氏を頼り小田原へと落ち延びます。ここで戦国大名としての今川氏は滅亡となりました。

「氏真が戦国大名として最後に抵抗した場所であり、重臣・朝比奈氏の居城だった掛川城(静岡県掛川市)」

その後、氏真は北条氏の方針転換(武田氏との和睦)よって小田原を去ることとなり、徳川家康の庇護下に入ります。それから京都に滞在して芸術三昧の日々を送り、晩年は家康から500石を賜って品川の屋敷に住んだそうです。大坂の陣と同時期の慶長19(1615)年、77歳で氏真は天寿を全うしました。

和歌を詠み、蹴鞠に秀でた氏真は、剣豪・塚原卜伝に学んだ剣術の達人でもありました。また、妻の早川殿とは終生添い遂げるなど、愛妻家の一面も持っています。当主としては父に及びませんでしたが、上手く時代を泳ぎ切った人物と言えるのではないでしょうか。

(xiao)

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