日本史上には、死後に怨霊となったといわれる人物がいます。特に有名なのが、「平将門(たいらのまさかど)」「菅原道真(すがわらのみちざね)」そして「崇徳天皇(すとくてんのう)」です。
将門は首塚の存在が有名で、道真は自分を失脚させた人々にたたったことで知られます。しかし、崇徳天皇についてはあまり聞いたことがないかもしれません。実は、崇徳天皇には恐ろしい妖怪になったという怨霊伝説があるのです。なぜそのような話が広まったのでしょうか。
今回は、彼の生い立ちや経歴、創作作品での描かれ方についてご紹介します。
崇徳天皇の生い立ちと経歴
崇徳天皇は平安時代後期に生まれ、その名の通り高貴な人物でした。そんな彼がなぜ妖怪伝説を生み出すことになったのでしょうか。実はその背景には、天皇だからこその事情があったのです。
幼くして天皇に!その生まれとは?
崇徳天皇は、元永2年(1119)に鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし /たまこ、待賢門院)の間に第一皇子として誕生しました。しかし祖父・白河法皇の子ではないかとの疑いがあり、父とはあつれきが生じていたのです。生まれた年に親王宣下を受けた彼は、2年後の保安4年(1123)1月28日に皇太子となり、同日には鳥羽天皇の譲位によって天子の位を受け継ぐこととなります。そして、満3歳という幼さで、日本の第75代天皇として即位しました。
ところが鳥羽上皇が藤原得子(ふじわらのなりこ、美福門院)を寵愛(ちょうあい)するようになると、その子供である躰仁親王(後の近衛天皇)を即位させるため譲位を迫られます。永治元年(1141)に弟・躰仁親王に譲位した彼は、その後は上皇となり崇徳院と呼ばれるようになりました。
ところが久寿2年(1155)、病弱だった近衛天皇は17歳で崩御してしまいます。後継候補として最有力なのは崇徳院の子・重仁親王でしたが、そのようには進みませんでした。美福門院の養子・守仁親王(後の二条天皇)が後継となり、成人するまではその父・雅仁親王(後の後白河天皇)が即位することになったのです。
保元の乱の詳細と崇徳院の動向
保元元年(1156)、朝廷が後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂したことにより「保元の乱(ほうげんのらん)」が勃発しました。この年の5月に鳥羽法皇が病気により倒れ、7月に崩御しましたが、直前に見舞いに行った崇徳院は対面を許されなかったといいます。というのも、法皇は「自分の遺体を崇徳院に見せないでほしい」と言いつけていたのです。これには崇徳院も憤慨しました。
その後ほどなくして、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す(崇徳上皇と左大臣・藤原頼長が手を組んで反乱を起こそうとしている)」という噂が流れ、後白河天皇から藤原忠実・頼長が軍を集めることを停止する命令が出されます。これに危機を覚えた崇徳院は、少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出しました。翌日には頼長が挙兵のために白河北殿へ上洛(じょうらく)し、崇徳院の側近の武士らも集まりましたが、崇徳側の兵力はあまりにも少ないものでした。このような動きを察知した後白河天皇方は、この行動は噂を裏付けるものだとして平清盛らに白河北殿を夜襲させたのです。
讃岐に流された、その後の生活
崇徳院は白河北殿から如意山(にょいやま)に逃れましたが、剃髪(ていはつ)して投降を決意し、仁和寺(にんなじ)に出向いて同母弟・覚性法親王(かくしょうほうしんのう)にとりなしを依頼しました。しかしこれを断られ、讃岐国に配流(はいる)されることになります。それ以降彼は、「讃岐院」「讃岐廃帝」などと呼ばれるようになりました。
『保元物語』によると、配流後の崇徳院は軟禁生活をしながら仏教に傾倒していたといいます。極楽往生を願って、五部大乗経の写本に熱心に取り組んでいたようです。
崇徳院は京に戻ることなく崩御しました。一説では、刺客によって暗殺されたともいわれています。
人々を震え上がらせる怨霊伝説
高い地位にありながら不遇な人生を歩んだ崇徳院ですが、怨霊伝説が生まれた裏にはどのような理由があったのでしょうか。
崇徳上皇が妖怪となった理由とは
崇徳院が妖怪(怨霊)になったとされる理由はいろいろ考えられますが、以下が有力なポイントといえるでしょう。
■徹底的に排除された
崇徳院には院政のチャンスがありませんでした。子である重仁親王が天皇になれば将来的に院政が可能でしたが、鳥羽上皇らの計略でその望みは次々に絶たれたのです。
鳥羽法皇らは「近衛天皇が崩御したのは、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛(じゅそ)のせいだ」と信じていたそうです。これほど目の敵にされていたのですから、崇徳院は苦々しい思いだったのではないでしょうか。
■写本を突き返された
配流後に写本作りをしていた崇徳院は、京の寺に納めてほしいと完成物を朝廷に差し出しましたが、後白河院は「呪詛が込められているかもしれない」と疑い、送り返しました。
激怒した崇徳院は舌をかみ切り、写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書いたといいます。その姿は夜叉(やしゃ)のようで、爪や髪は伸び放題だったのだとか。生きたまま天狗(てんぐ)になったともいわれており、崩御後はふたを閉めた棺から血があふれだしたそうです。
■崩御を無視された
「保元の乱」終結後の崇徳院は罪人として扱われ、崩御後もその認識は変化しませんでした。国司によって葬儀が行われましたが、朝廷は何もせず、徹底的にその存在を無視したのです。
生前からひどい待遇を強いられてきた崇徳院ですが、死してなおこのような対応をされたことで、怨霊としてたたるほかなくなったのかもしれません。
降りかかる災厄の数々
崇徳院崩御後の安元3年(1177)、「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」といった出来事が立て続けに起こりました。しかしこの前兆は前年にすでに表れており、白河院や忠通に近い人物が続々と命を落としていたのです。
精神的に追い詰められた後白河院は、怨霊の魂を鎮めようと「保元の宣命」を破却し、頼長にも正一位太政大臣を贈りました。寿永3年(1184)には「保元の乱」の戦場だった春日河原に「崇徳院廟(びょう)」(のちの粟田宮)も設置しています。
近年でも、明治天皇が崇徳院の御霊を京都へ帰還させ「白峯神宮」を創建したり、昭和天皇が崇徳天皇陵で式年祭を執り行ったりしています。
妖怪として描かれる作品
崇徳院の怨霊としてのイメージは定着していたようで、江戸時代には物語のネタとして描かれています。上田秋成による江戸時代後期の読本『雨月物語』では、西行法師が崇徳院の陵墓「白峯陵」に参拝し、崇徳院の怨霊と対面するシーンがあります。
また曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』では、源為朝(みなもとのためとも)が危機に陥ると助けに来てくれる怨霊という役どころで登場します。この話は勧善懲悪の伝奇物語で、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作です。江戸の人々にとって、崇徳院の怨霊はそれだけポピュラーなネタだったのでしょう。現代でも多くの創作作品で妖怪として描かれています。
歌人としての顔も持つ
「日本三大妖怪」の一人として恐れられている崇徳天皇ですが、小倉百人一首にもその和歌が選ばれるなど、歌人としての顔もあります。在位中の彼は頻繁に歌会を開催し、上皇となった後も『久安百首』を作成したり『詞花和歌集』を撰集(せんじゅう)したりしました。配流先で詠んだ歌も残されており、そこからは怨念ではなく悲嘆がうかがえるといいます。
妖怪や怨霊のイメージが強い彼ですが、熱心に写経をしたり歌を詠んだりと、文化人としての側面もあったのです。
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