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【 信長はやっぱり凄い 】 孫子で検証する桶狭間の戦い

【 信長はやっぱり凄い 】 孫子で検証する桶狭間の戦い

5月19日は、戦国最大級の逆転劇・桶狭間の戦いが起こった日です。
永禄3(1560)年、上洛しようとした今川義元は、約4万(通説では2万とも)の大軍で尾張に攻め込みました。一方、織田信長の軍勢はわずか3千の軍。しかし結果は、信長が義元を討ち取るという大逆転劇を成し遂げたのです。この戦いを奇跡と思いますか?答えは否です。この勝利の裏には、綿密に練られた戦略があったのです。その鍵は「風林火山」にありました。

信長が実践した「風林火山」戦法

歴史好きであれば「風林火山」という言葉は聞いたことがありますよね。武田信玄の旗印でも有名です。

「風林火山の旗」

「風林火山の旗」

其疾如風(その疾きこと風の如く)
其徐如林(その徐なること林の如く)
侵掠如火(侵掠すること火の如く)
不動如山(動かざること山の如し)

これは孫子の兵法書から取ったものですが、続きがあることは余り知られていません。その続きとは、

難知如陰(知りがたきこと陰の如く)
動如雷霆(動くこと雷霆の如し)

です。

敵に暗中のように全貌を知られないようにし、兵を雷のように激しく動かせという意味です。まさしく信長は、この孫子の兵法を実践したのです。

今川軍は4万もの大軍ではなかった?

今川軍は全軍で合わせれば約4万にも上る大軍だったかもしれませんが、その軍勢は何手にも分かれていました。前日の5月18日、松平元康(後の徳川家康)率いる手勢は、大高城を信長攻めの本拠地とするため、義元の傍を離れて先に入城します。

そして翌19日、元康らは大高城を囲む丸根砦、鷲津砦の攻撃を開始しました。

義元も大高城に入ると予想した信長は、今川義元との決戦を決意します。それまで全く軍議も開かなかった信長に、味方ですら戦う気はないのだと考えていました。そこで信長は、自分を鼓舞するため「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」で有名な『敦盛』を舞うのです。その後、わずかな兵だけで熱田神宮に向かい、軍が揃うのを待ちました。風のように疾駆し、林のように徐かにあるいは山の様に動かず時を待ったのです。

陰となり、火となり、雷となった織田軍

丸根砦、鷲津砦は昼前に陥落しました。義元の到着前に、元康が砦を落としたため、義元は大高城に急ぐ必要がなくなり、全軍に小休止を命じました。

この時、義元は小高い山『桶狭間山』に本陣を据えました。その小高い山に翻る義元の馬印で、信長は義元の居場所を突き止めます。

「愛知県名古屋市と愛知県豊明市にまたがるこのあたりが桶狭間です」

「愛知県名古屋市と愛知県豊明市にまたがるこのあたりが桶狭間です」

さらに、周囲の地形は通行の困難な狭い道だったので、今攻めれば、本陣より後ろの兵は動けません。信長は今川軍の陣形と義元の居場所を一方的に把握できたのです。

そこに、運よく強い雨が降ってきました。悪天候は、将兵の視界を遮ります。信長にとってはチャンスです。陰となって、今川軍に迫ります。信長の正面突撃の攻撃命令とともに、織田軍は侵掠する火となり、雷となって、今川軍に攻めかかりました。

一方の今川軍は織田軍の全貌がわからないまま、急に攻め込まれた格好です。数のわからぬ敵は、その何倍もいるように見えるものです。恐怖に駆られた足軽は逃げ出し、後陣は何が起こったかわからず、動くこともできません。そのため、今川軍は退却すらできない状態に陥り、ついに義元は信長の配下の毛利新助によって討取られてしまうのです。

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孫子の兵法に、「迂直之計(うちょくのけい)」というものもあります。一見非合理的に見えることが、実は合理的なことを意味します。大軍相手に正面突撃など無謀に思えますが、風林火山陰雷を実践した信長は、戦略上既に勝利していたのです。
桶狭間は信長が勝つべくして勝った戦といえるでしょう。

(黒武者 因幡)

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