【諸葛亮のライバル:司馬懿】魏を滅ぼした謀臣の生涯と人物像

世界史
魏を滅亡に追い込んだ司馬懿(「三国志 Secret of Three Kingdoms」より ©Chinese Entertainment Tianjin Ltd.)

日本史にも優秀な軍師が多数いますが、歴史上で名高い軍師といえば諸葛亮を思い浮かべる人が多いでしょう。三国志において、この諸葛亮のライバルといわれているのが司馬懿(しばい)です。司馬懿は中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将で、諸葛亮とは接戦を繰り広げました。
今回は司馬懿について知りたい人に向けて、曹操に士官するまでの経緯、その後の活躍、魏を滅亡に追い込んだクーデターの背景、その人物像などについてご紹介します。

うまれから曹操に士官するまで

司馬懿は魏の曹操に仕えましたが、それは不本意なものでした。それでも士官に至った経緯について振り返ります。

名門・司馬氏にうまれる

司馬懿は名門・司馬家の出身で、河内郡温県孝敬里で誕生しました。妻は張春華で、息子には司馬師や司馬昭らがいます。司馬氏は代々高官を輩出した家柄だったため、司馬懿も幼いころから厳格な家風のもとで育ちました。8人兄弟は聡明な者ぞろいだったことから「司馬八達」と呼ばれ、司馬懿はとくに優れていたといいます。

仮病の末、やむを得ず曹操に仕える

優秀な司馬懿の噂は曹操の耳に入り、やがて出仕を求められるようになります。司馬懿は漢朝が衰えていることを鑑み、病気を理由に辞退しますが、仮病を見抜いた曹操が捕らえてでも連れてくるよう命令したため、やむを得ず出仕を決意しました。文官として仕えた司馬懿は、軍略の献策などで徐々に認められるようになります。

大将軍に昇進し諸葛亮と対決!

孔明と司馬懿の戦いでは、空城計などの心理戦も行われました。

曹操のもとで頭角を現した司馬懿は、その後も活躍し順調に出世していきます。そして、諸葛亮と対決することになるのです。

曹丕・曹叡に重用される

曹操は司馬懿を警戒していましたが、曹操の子・曹丕は司馬懿と親しく、絶大な信頼をおいていました。建安25年(220)に曹操が死去すると、魏王を継いだ曹丕は献帝から禅譲され魏の皇帝に即位。ここで重用された司馬懿は、曹丕の四友とまでいわれるようになり、その子・曹叡が皇帝になった後も引き続き重用されました。

奇才・諸葛亮との戦い

太和4年(230)司馬懿は大将軍に昇進し、蜀漢との戦いの総司令を務めていた曹真の跡を継いで諸葛亮と対戦します。『晋書』によれば司馬懿は諸葛亮を追撃して大破したといいます。そして青龍2年(234)諸葛亮が5度目の北伐(軍事侵攻)をした際、長期にわたる対陣ののち諸葛亮が病死。蜀漢軍の撤退後、司馬懿はその陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。『漢晋春秋』によれば、司馬懿は蜀漢軍を追撃しようとした際に、軍が反転して攻撃する構えを見せたため、諸葛亮が生きていると思い退却したといいます。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす(優れた人物は死後にも生前の威力が保たれて、生きている者を恐れさせる)」という故事成語になりました。

公孫淵を征伐し武功を上げる

景初2年(238)遼東を拠点としていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は討伐にあたります。公孫淵は呉に援軍を求めるとともに籠城しましたが、やがて食糧が底をつき和議と助命を嘆願。公孫淵とその子・公孫脩は逃亡しましたが、司馬懿はこれを追撃して斬殺し、公孫淵の高官たちも処分して遼東を制圧しました。

クーデターで魏を滅ぼす

ドラマでは武術にも長けた武将として描かれている司馬懿(「三国志 Secret of Three Kingdoms」より ©Chinese Entertainment Tianjin Ltd.)

さまざまな活躍をみせた司馬懿ですが、やがて魏に対するクーデターを起こします。そしてそれは、西晋の建国へとつながっていくのです。

曹爽との対立が深まり…

曹叡の死後、司馬懿は曹真の長男・曹爽とともに次の皇帝である曹芳の補佐を託されます。権力を独占しようとする曹爽により名誉職の太傅に転任させられた司馬懿でしたが、当初は大きな問題は起こりませんでした。しかし正始5年(244)の蜀漢出兵で曹爽が多大な犠牲を出すと、もともと失敗を予見していた司馬懿は曹爽と対立するようになります。そしてその後は、ことあるごとに曹爽一派と衝突するようになったのです。

演技でだましクーデターを起こす

曹爽との対立が表面化すると、司馬懿は70歳近い高齢と病気を理由にして、引退したかのような演技を始めます。曹爽は司馬懿を警戒しましたが、わざと言葉を聞き間違えたり薬をこぼしたりして、騙し通すことに成功。正始10年(249)曹爽が洛陽を留守にすると、司馬懿はここぞとばかりにクーデターを起こしたのです。司馬懿は曹爽を降伏させ、本人とその一族を監視下において軟禁。最後には謀反を企んだとして一族郎党皆殺しにしました。

孫の司馬炎が西晋を建国

西晋を建国し初代皇帝となった司馬炎像です。(ボストン美術館蔵)

こうして司馬懿は魏の全権を握りましたが、その2年後に死去してしまいます。その後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝となり、司馬懿は高祖宣帝の諡号(死後に送られる名前)を得ました。司馬懿は息子達に、自分が死んだら慎重に行動してうまく国を治めるよう告げています。これは、常に謀反を疑われながら生きてきた司馬懿ならではの言葉でした。

恐るべき司馬懿の人物像とは?

司馬懿の肖像です。

諸葛亮のライバルといわれる司馬懿は、どのような人物だったのでしょうか。人物像がわかるエピソードを2つご紹介します。

権謀術数に長けていた

司馬懿は猜疑心が強く、嫌悪する相手にも表向きは寛大に振舞うなど、臨機応変に切り抜ける才能がありました。曹操は司馬懿の性格を見抜いており、曹丕にも「司馬懿は臣下の身分にとどまる人物ではないから、お前にとって代わるだろう」と忠告しています。この言葉通り、権謀術数に長けた司馬懿によって魏は滅ぼされました。

トランプではジョーカーに!

中国で販売されている三国演義トランプでは、司馬懿は諸葛亮とともにジョーカーとして描かれています。中国では、小説『三国志演義』の諸葛亮のライバルとして、曹操に次ぐ知名度をもつようです。実際には軍師ではなかった司馬懿ですが、諸葛亮と同じくらい策略に長けていたのでしょう。

「狼顧の相」をもつ男

曹操は司馬懿の能力を認めながらもその野心に感づき警戒していました。しかし曹丕は司馬懿と親しく、さらには重用したため、最終的には国を滅ぼされることになったのです。
相手の裏をかいて一世一代のクーデターを成功させた司馬懿には厳しい意見もありますが、その巧みな人生を振り返ると、まさに諸葛亮と並ぶジョーカーのような人物だったといえるでしょう。


「三国志 Secret of Three Kingdoms」
放送日時:2020年3月10日(火)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート:2020年3月11日(水)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/detail/secretofthreekingdoms/
出演:マー・ティエンユー(劉平)、エルビス・ハン(司馬懿)、レジーナ・ワン(伏寿)、ドン・ジェ(唐瑛) ほか
制作:2017年/全54話/字幕/原題:三国機密之潜龍在淵


 

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