8月26日公開に向け、話題となっている映画『関ヶ原』。筆者も一足先に試写を見せていただいたが、まさに歴史大作。司馬遼太郎氏の原作が、秀吉の存命中から関ヶ原決戦まで、かなり忠実に映像化され、濃密な2時間半を満喫できた。
公開を心待ちにされている方も多いかと思うが、そこで今回は映画観賞前の「おさらい」となる記事をお届けする。両軍が、どういった流れで「関ヶ原」での決戦に臨んだのか。上の布陣図をもとに追っていくことにしたい。
その前に、まずは本日公開となった特別映像「天下分け目の戦い<その真実>」を見ていただくと、より理解度が高まるかと思う。迫力の映像の一端を垣間見てほしい。
ムードも高まったところで、この決戦の前日、慶長5年(1600)9月14日の両軍の動き。
そして同日に「前哨戦」として行なわれた「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」の模様などを解説していきたい。
東西両軍の合戦は、3ヶ月の長期戦だった
よく、「たった1日で終わった」といわれる関ヶ原の戦いだが、9月15日に両軍がいきなり関ヶ原の地に勢ぞろいして激突したわけではない。戦いはその3ヶ月前の6月中旬、徳川家康が会津討伐の兵を挙げた時から始まっていた。決して短期決戦ではなく「長期戦役」だったのだ。
その間の各地での戦いを経て、決戦前日の9月14日。東西両軍は美濃(岐阜県)赤坂の地に集結し、対峙していた。当時の戦況は、やはり東軍が優勢を保っていた。福島正則らを中心とした東軍の先鋒が8月23日に西軍の一大拠点であった岐阜城を攻め落とし、さらに大垣城を攻撃する準備にかかっていたのだ。この大垣城こそ、西軍の本拠地であり、ここで石田三成ら3万の主力が守りを固めていた。
その日の未明、徳川家康は岐阜城にいた。本来であれば大垣城攻略を急ぐ味方の軍勢に加勢すべきだったが、ここで足を休めていたのだ。彼は別働隊である息子・徳川秀忠の軍勢を待っていたという。秀忠軍と合流し、一気に大垣城を包囲にかかろうと思ったのだろう。
しかし、いつまで待っても秀忠軍は現れなかった。川の増水で、家康からの上洛命令が届くのに時間がかかったからだ。ここで百戦錬磨の将・家康は決断する。「戦況は刻一刻と変わる。このままでは戦機を逸する」と、秀忠を待たず長良川を渡り、赤坂へと急行したのだ。
家康本隊の到着に、西軍おおいに狼狽する
家康軍は正午までに赤坂(大垣市)に着陣。金扇の馬印が、赤坂の岡山にある安楽寺に立てられた。赤坂は大垣城の北西約4キロの地点。両軍の将が、お互いの旗を望むほどの距離に対峙したのである。
この家康の動きを、西軍はまったく把握できていなかった。そのため敵陣中に、いきなり家康の馬印が立ち、葵の紋の旗印が翻った有様を見た西軍将兵に動揺が走った。
「味方の兵士、かように騒ぎ立ちては、合戦の勝敗測り難し。それがし、人数を出して敵をひっかけ、一手二手切り崩さんに、手間は入るべからず」(頼山陽『日本外史』)
うろたえる味方を前に、こう叫んだのは島左近である。左近は石田三成の許可を得ると、手勢を連れて杭瀬川のほとりへと馬を走らせた。そして川の周辺の森林に伏兵を置き、対岸へ渡って東軍の先頭にいた中村一栄隊を挑発。左近は小競り合いを演じた後、負けを装い、川向こうへ撤退した。それを見た中村隊に、有馬隊も加わって追撃にかかる。
不用意に川を渡ってきた東軍。そこへ潜んでいた伏兵が襲いかかる。大混乱になったところへ、宇喜多秀家の家臣・明石掃部(かもん)の軍勢も加勢した。たまらず東軍が逃げ出すと、左近や明石らはこれを追撃し、東軍の兵40名ばかりを討ち取り、勝ち鬨をあげたのである。
この前哨戦「杭瀬川の戦い」は、ほんの局地戦ではあるが、劣勢が続いて士気が低下する一方だった西軍の諸将を勇気づけた。逃亡兵も出た中で、島左近の活躍が西軍を奮い立たせ、翌日の決戦まで士気を持続させたのだ。
さて、もう一度、布陣図を見てみよう。
赤坂・大垣周辺は、このような小競り合いが起こるほど両軍が肉薄していたが、東軍はそれ以上は攻撃をしかけなかった。
決戦当日ばかりか、前日も動かなかった毛利勢
なぜなら、南宮山の山頂に布陣していた毛利・吉川勢が、いつ山を下りて西軍に加勢するか分からなかったからである。そうなれば、東軍は大垣城を攻めている間、背後から毛利勢の猛攻を受けてしまう。
だが、結果的にこの南宮山の毛利勢は、動くことはなかった。毛利勢は9月7日から南宮山に陣取っていた。この山は大垣城も赤坂も見下ろすことができ、西軍主力との連携も取れているように見えるが、実際には赤坂の前線からはかなり離れている。どうも、毛利勢には最初から戦意はなかった、という意思表示にも見られる。
そして毛利勢は翌日の関ヶ原での決戦でも動かなかった。それが西軍敗北の要因になったことはよく知られている。実は南宮山の山上からは、東の赤坂方面はよく見渡せるが、西の関ヶ原はまったく見えないのだ。
この日の夜半、両軍が関ヶ原へと移動した時も、毛利勢は南宮山から動かなかった。山の下を通る東軍も素通りさせている。この時点で、毛利勢には決戦に参戦する意思がなかったことは明らかといえる。
関ヶ原には、北陸方面から大谷刑部(吉継)や小川祐忠、脇坂安治ら、およそ2000ほどの軍勢が9月3日ごろに着陣していた。実は、この時点ではまだ誰も「関ヶ原」が決戦地になることは想定されていなかった。
10日前から関ヶ原にいた大谷吉継と、急きょ布陣した小早川秀秋
ただ、美濃から西の京坂(近畿)へと進むためには関ヶ原を通る必要がある。東軍が西進してきたとき、あるいは敗走して西へ逃げようとしたときに、その妨げになるような陣地を、そのあたりに構築する必要があった。
大谷らは東軍をそれ以上西へ行かせないために街道の封鎖を行なっていたと思われる。当時の最前線である赤坂方面からは遠く離れており、彼らは後詰部隊として活動していたようである。
その戦況が大きく動いたのが、9月14日であった。この日の正午、小早川秀秋の軍勢(8000人とも1万5000人とも)が、松尾山に陣取ってしまったのである。これは家康が赤坂に到着した日と同日、ほぼ同時刻のことだった。
松尾山には、その時すでに西軍の守備隊がいたが、秀秋はそれを追い散らして布陣した。いまだ東西どちらに付くのか、その意思を明白にしていなかったが、これによって東軍側での参戦意思を明らかにしたという解釈も成り立つ。決戦当日の秀秋の「裏切り」は有名だが、この時点で東軍側であったとすれば、彼は裏切ったというより最初から東軍だったという見方もできるのだ。
真相は本人のみぞ知るところだが、この動きは「筑前中納言殿(秀秋)むほんの風聞候」と家康の侍医である板坂卜斉(ぼくさい)が記すなど、東西両軍の諸将も不思議な思いで受け止めたようだ。
そして、この秀秋の動きを知り、最も疑心暗鬼となったのが、石田三成だった。秀秋が松尾山に布陣したのはいいとして、もし東軍側につけば関ヶ原にいる大谷吉継勢が危うくなる! 三成は決断を下した。
「いざ、関ヶ原へ」
9月14日の深夜、三成の号令のもと、西軍約3万の軍勢は大垣城を飛び出して関ヶ原へと向かった。そして東軍もこの西軍の動きを知り、赤坂の陣から関ヶ原へと駒を進めるのである。
これまでの一般的な説では、まず東軍が赤坂には抑えの部隊だけを残し、西へ進軍する構えを見せたため、慌てた西軍がそれに先回りする形で関ヶ原に移動、決戦に及んだとされてきた。さて、どちらの説が真実か。それについてはまだまだ一考の余地がありそうだが、こうして両軍は翌9月15日の関ヶ原決戦を迎えるのである。その決戦の模様は、映画『関ヶ原』で、しかとご覧いただきたい。
映画「関ヶ原」
8月26日(土)より全国ロードショー
配給:東宝=アスミック・エース
監督・脚本:原田眞人
出演:岡田准一 有村架純 平岳大 東出昌大/役所広司
公式サイト:http://sekigahara-movie.com/
©2017「関ヶ原」製作委員会
【ストーリー】
1600年9月15日 関ヶ原。時代が、動き出す。
関ヶ原の戦い――それは、戦乱の世に終止符を打ち、後の日本のありようを決定づけた。秀吉亡き後、豊臣家への忠義から立ちあがる石田三成(岡田准一)と、天下取りの野望を抱く徳川家康(役所広司)。三成と家康は、いかにして世紀の合戦に向かうのか?そして、命を懸けて三成を守る忍び・初芽(有村架純)との、密やかな“愛”の行方は……。権謀渦巻く中、「愛」と「正義」を貫き通した“純粋すぎる武将”三成を中心に、三成へ忠誠を誓う島左近、忠義に揺れる小早川秀秋など名だたる武将たち、そして彼らを取り巻く女たちの“未来に向けた”戦いが、今、幕を開ける!!
【文/上永哲矢(哲舟)】
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