【井上源三郎】「源さん」の愛称で慕われた新選組六番隊組長

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【井上源三郎】「源さん」の愛称で慕われた新選組六番隊組長

井上源三郎は、新選組の古参隊士のひとりであり、六番隊組長を務めた人物です。今回は、井上源三郎の生い立ちから浪士組参加、新選組での働き、鳥羽・伏見の戦いでの行動、人物エピソードをご紹介します。

生い立ち〜試衛館時代

まずは源三郎の生い立ちから、試衛館時代のエピソードをご紹介します。

武蔵の日野宿に生まれる

源三郎は、文政12年(1829)3月1日に八王子千人同心頭を世話する井上藤左衛門の三男として生まれました。井上家の先祖は今川氏真・武田信玄・武田勝頼に仕えた「井上掃部頭」であり、武田家滅亡の際に日野に移住したという伝承が残っています。

源三郎は子供のころ、八王子千人同心のひとりである日野義貴の寺子屋で学問を学びました。弘化4年(1847)頃、2人の兄に続いて天然理心流3代宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の道場に入門。土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の手解きを受け、農業の合間をみては剣術修行に励んだとされています。

近藤勇・土方歳三らと稽古に励んだ試衛館時代

近藤勇の肖像です。

勇の兄弟子にあたる源三郎は、その後も日野で勇や歳三、沖田総司ら試衛館の仲間と剣術に励みました。この日野試衛館にて、後の新選組の中核が作られていったとされています。源三郎は「源さん」の愛称で親しまれ、年嵩のイメージが強いのですが、近藤勇より5歳年上なだけで、他の隊士と比べてもそれほど年齢が離れているわけではありません。

なお、井上家の分家にあたる井上林太郎は総司の姉に婿入りし、沖田家を継いでいます。総司の母が日野にいた時期もあり、4歳ごろの総司が親戚でもあった源三郎の家によく遊びに来ていたこともわかっています。

源三郎は試衛館入門から約13年の年月をかけ、万延元年(1860)に天然理心流の免許皆伝となりました。派手さはないものの、実直な努力家であることがうかがえます。

新選組での活躍

源三郎の、新選組での活躍についてご紹介します。

浪士組参加〜芹沢派の粛清

文久2年(1862)2月、源三郎は14代将軍・徳川家茂の上洛警護を行う「浪士組」に勇・歳三らと参加しました。日野からは総司の義兄で源三郎の親戚にあたる林太郎も参加しています。しかし、浪士組を立ち上げた清河八郎と、後の新選組となる勇・芹沢鴨らの思想の違いにより、源三郎を含む試衛館一派は江戸に帰還する清河らと分裂し、京都に残留して壬生浪士となりました。

文久3年(1863)には「新選組」の隊名をもらい、派閥争いの末に芹沢一派が粛清されると、古参幹部のひとりとして副長助勤に就任しました。源三郎は対外的な交渉も行っていたとされています。

池田屋事件

現在の池田屋跡

新選組の歴史の中でも特に有名な、元治元年(1864)の池田屋事件。源三郎は歳三の支隊指揮を務めており、勇の隊が少人数で斬り込んだのち加勢として駆けつけました。池田屋に到着するなり2階に素早く駆け上がり、長州藩士1人を切り倒し8人を捕縛したといわれています。いつも物静かだった源三郎が戦で武功を上げる様子は幹部仲間にとっても驚がくだったようで、のちに永倉新八が語っているほどです。

六番隊組長としての働き

慶応元年(1865)6月には六番隊組長に任命され、慶応3年(1867)6月には新選組が幕府直参となったことで、副長助勤の源三郎は70俵3人扶持(給料)となります。慶応3年(1867)10月には歳三と江戸に戻り、新入隊士の募集を行いました。このとき、次兄・松五郎の息子である井上泰助が隊士に加わります。同時期、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古が決定。旧幕府側への風当たりはますます強くなっていきました。

鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いの様子

鳥羽・伏見の戦いにおける源三郎の様子と、最期についてご紹介します。

淀千両松での戦死

慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍1万5000人が鳥羽街道を京都に向けて進み、薩摩軍と開戦。新選組もこの戦いに巻き込まれていきます。1月5日には淀千両松で薩摩軍と激突。鉄砲や大砲など近代兵器をそろえた薩摩軍に対し、新選組の装備は刀や槍がメインでした。撤退命令が出ていたにもかかわらず、源三郎をはじめとする新選組は「幕府への恩を返すときは今である」として果敢に戦い続けます。

源三郎は放棄された大砲を奪って応戦するなど善戦しますが、薩摩軍の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40歳でした。共に戦っていた甥・泰助は「叔父さんは、撃たれて倒れると手当をする間もなく息を引き取ってしまった」とのちに語っています。源三郎が戦死した地には「幕軍戦死者埋葬地」の碑が建てられています。

甥・井上泰助が首を持ち帰るも……

源三郎の最期を看取った泰助はその後、首だけでも敵に奪われる前に持ち帰ろうとしましたが、戦いの最中で自分や仲間の命も危なくなったため、仲間から諭されて戦場近くの寺院の境内に首と刀を埋葬した、というエピソードがあります。

寺院の正確な場所は長らく不明とされていましたが、のちに郷土史家と新選組研究家の調査により、黒染(現在の京都市伏見区)にある欣浄寺という寺院ではないかと推測されています。なお、墨染欣浄寺は現在では廃寺となっており、発掘調査などは行われていません。

無口ながら、誰からも慕われた兄貴分

源三郎は勇や歳三らと親交が深く、かつ年上という立場から兄貴分のような立ち位置にあったとされ、若い隊士も含めて人望厚く慕われていました。八木為三郎によれば「ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人だった」とのことです。そうかと思えば、粛清などの汚れ仕事にも積極的に参加していたことから、剣技にも優れていたことがわかります。

壬生で子どもたちと遊んでいた総司が通りすがりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけた際には、「わかっているなら稽古をしたらいいのに」とたしなめるなど、年長者らしい導きもうかがえます。源三郎のこうした実直な性格は、隊内でも対外的な職務や要人の接待等の総務などを任されていたことからもわかるでしょう。

隊内での人望厚い、努力家の「源さん」

源三郎は、沖田総司や永倉新八、斎藤一ら名だたる隊士と比べると派手さこそないものの、近藤勇の兄弟子であり、同じ天然理心流の免許皆伝であり、学問にも剣術にも優れた努力家でした。隊内でも年長者の立場から若い隊士をたしなめる立場になることもあり、誰からも慕われる兄貴分だったようです。最期も幕府への恩を返すための戦死であり、非常に実直で義理堅い人柄がうかがえます。

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