【女子教育の先駆者:津田梅子】アメリカ留学と帰国後の活躍

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【女子教育の先駆者:津田梅子】アメリカ留学と帰国後の活躍

2019年4月、新元号「令和」に続き紙幣刷新が発表されました。新紙幣の顔として選ばれたのは、渋沢栄一、北里柴三郎、そして唯一の女性である津田梅子です。梅子は日本における女子教育の先駆者で、津田塾大学の創始者でもあります。女性たちが教育を受けることが難しかった当時、梅子は女子教育家としてどのように生きたのでしょうか。

今回は、梅子の生い立ちから留学生活、帰国後の活動や教育者としての活躍についてご紹介します。

わずか6歳でアメリカ留学

幼少期の津田梅子
渡米直後の梅子の写真です。

梅子は明治時代が幕を開けるわずか4年前の幕末に生まれました。時代の大きな変わり目に生まれた梅子は、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。

津田梅子の生まれについて

元治元年(1864)梅子は津田仙・初子夫妻の次女として江戸に生まれました。幕臣だった父は幕府の終焉により失職。明治2年(1869)に築地のホテル館に勤務しはじめ、一家は向島へと移り住みました。

梅子はこの頃から手習いや踊などを学んでいましたが、父が西洋野菜の栽培などを手がけていたことから、この農園の手伝いもしていたようです。また5歳になる頃には、私塾に通い読書や習字を学びました。

岩倉使節団で最年少の留学生

岩倉使節団
梅子は最年少の留学生として、岩倉使節団に随行しました。

明治4年(1871)父が明治政府から北海道開拓使に任命され、一家は麻布へと移住します。これが梅子の転機となりました。
開拓使次官だった黒田清隆は女性の教育に関心がある人物で、父は黒田が企画した女子留学生に娘の梅子を応募させます。これに見事合格した梅子は、女性初の留学生として岩倉使節団に随行して渡米することとなったのです。このとき渡米した山川捨松ら女子留学生5人のうち、梅子は最年少の満6歳でした。

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アメリカでの梅子

11月に横浜を出港した船は翌月アメリカのワシントンへと到着、梅子は日本弁務館書記で画家だったチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられます。ここで梅子は英語やピアノなどを学び、自らキリスト教への信仰を深めていきました。コレジエト校を卒業したあとは私立の女学校アーチャー・インスティチュートへと進学し、ラテン語やフランス語をはじめ、英文学、自然科学、心理学、芸術など、幅広く知識を吸収していきます。
明治14年(1881)留学期間が10年と決められていたため開拓使から帰国命令が出されますが、在学中だった梅子は山川捨松とともに延長を申請。明治15年(1882)7月に卒業し、11月に日本へと帰国しました。

梅子の帰国後の生活とは?

アメリカの生活様式に慣れていた梅子は、帰国後にだいぶ苦労したようです。しかしそれを乗り越え、少しずつ活躍の場を広げていきます。

伊藤博文と再会した梅子

伊藤博文
梅子と再会した伊藤博文です。

留学によりさまざまな語学や知識を身に付けた梅子でしたが、儒学の価値観が残る日本社会には女子留学生が就けるような職業はほとんどありませんでした。また、長い留学生活で日本語能力が低下し翻訳が必要だったことや、日本の習慣に不慣れだったことも、梅子にはネックだったようです。
明治16年(1883)外務卿・井上馨の開催した夜会に招待された梅子は、岩倉使節団でともに渡米した伊藤博文と再会し、華族の子女を教育する「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」の開設者・下田歌子を紹介されます。これにより梅子は、歌子から日本語を学び、英語教師として桃夭女塾に通うようになりました。

華族女学校で英語を教える

明治18年(1885)梅子は伊藤の推薦により、学習院女学部から独立した華族女学校で英語教師となります。ここでは3年ほど教壇に立っていますが、上流階級の雰囲気に馴染めず、何度かあった縁談も断っています。
思春期をアメリカで過ごした梅子にとって日本の結婚観はうんざりするものだったようで、「二度と結婚の話はしないでほしい」と手紙に書いて生涯未婚を誓ったほどでした。

再度、留学の道へ

カレッジ時代の津田梅子
ブリンマー・カレッジで学んだ梅子です。

そのような状況もあってか、明治21年(1888)来日していた留学時代の友人アリス・ベーコンの勧めによりもう一度留学することを決意します。商業教育に関わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘クララの仲介により学費は免除となり、翌年7月、梅子は再びアメリカに渡りました。
留学後の梅子はブリンマー・カレッジで生物学を専攻し、蛙の発生に関する論文を執筆したり教授法(学習指導法)に関する研究をしたりしていたようです。
友人アリス・ベーコンは日本の女性について研究しており、アメリカ帰国後に「日本の女性」を出版。これは梅子が日本の女子教育に関心を持つキッカケとなり、留学期間を1年延長した彼女は日本女性の留学のための奨学金を設立し、講演や募金などの活動を行いました。

女子教育の先駆者として活躍!

津田梅子

再度の留学で女子教育に関心を持つようになった梅子は、日本に帰国後、本格的に活動を開始します。この活動は梅子にとって生涯をかける仕事となりました。

女子英学塾を設立する

梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松
左から梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松です。

明治25年(1892)8月、日本に帰国した梅子は再び華族女学校で教鞭をとるようになります。2年後には明治女学院の講師にもなり、明治31年(1898)には女子高等師範学校教授も兼任しますが、この間も自宅で女学生を預かるなど女子教育に対する積極的な援助を行いました。
明治32年(1899)「高等女学校令」「私立学校令」の公布により女子教育の傾向が強まると、官職を辞め、父やアリス・ベーコン、かつてともに留学した大山捨松、瓜生繁子らの協力を得て「女子英学塾」を設立します。
塾長となった梅子は、身分に関係ない先進的で自由な女子教育を目指しました。梅子はこの女子教育で、行儀作法の延長のようなこれまでの教育とは異なり、進歩的な独自の教育方針を貫いたそうです。しかし、資金援助の規模は小さく経営は厳しかったといいます。そんな中、明治36年(1903)「専門学校令」が公布されると塾は社団法人化しました。

生涯独身を貫いた梅子

津田塾大学の正門
現在の津田塾大学です。

パワフルに人生を歩んできた梅子ですが、塾の創業期には健康を損なっていました。創立当初、無報酬で塾経営に奔走していたことも関係しているかもしれません。
大正8年(1919)1月に塾長を辞任した梅子は、鎌倉の別荘で闘病生活を送り、昭和4年(1929)脳出血により64歳で亡くなります。かつて誓ったとおり独身を貫いた人生でした。
梅子の創設した女子英学塾は「津田英学塾」と改名し、戦災で一度失われたものの、昭和23年(1948)「津田塾大学」として正式に開校します。梅子のお墓は、現在も東京都小平市の大学構内にあります。

2024年には紙幣に!

津田梅子

梅子は生涯独身を貫き女性教育に尽力しました。文明開化で多くの西洋文化が流入したとはいえ、まだ古い風習が残っていた当時の日本からすれば、彼女の教育にかける人生や生涯未婚という人生観は、旧来の日本人の感覚と一線を画していたといえるでしょう。
女性の地位向上に貢献し歴史に名を刻んだ梅子は、2024年から新しい5千円札の顔になります。これを機に、梅子の生涯とその思想に目を向けてみてはいかがでしょうか。

 

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