【織田家の宿老:丹羽長秀】柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男の生涯

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【織田家の宿老:丹羽長秀】柴田勝家とともに双璧と呼ばれた男の生涯

天下人として名を馳せた織田信長には、多くの優秀な家臣がいました。反逆した明智光秀もその一人ですが、並び立って思い出すのは、信長亡きあとに織田家の家督について話し合った羽柴秀吉、池田恒興、柴田勝家、丹羽長秀の4人でしょう。この中で織田家筆頭家老だったのが勝家で、次席が長秀でした。

今回は、鬼五郎左の異名をもつ長秀が一体どのような人物だったのか、その人生や逸話についてご紹介します。

長秀の生まれと佐和山城主になるまで

長秀が入城した佐和山城です。(個人蔵・彦根城博物館寄託)

長秀の出自はどのようなものだったのでしょうか。その生まれから戦功をあげて台頭するまでを振り返ります。

尾張で生まれ信長に仕える

長秀は、天文4年(1535)丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。もともとは斯波氏の家臣だった丹羽氏ですが、長秀は15歳のときから信長に仕えています。
天文22年(1553)19歳になった長秀は梅津表の合戦で初陣を果たします。その後は、弘治2年(1556)稲生の戦い、永禄3年(1560)桶狭間の戦いに織田軍団として従軍しました。

美濃国の戦いで台頭する

長秀は斎藤龍興との美濃国の戦いで台頭したと考えられており、その後も信長のもとで武功を上げています。信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛した際にも、南近江の六角氏を攻めた観音寺城の戦いで活躍しました。また姉川の戦い後は、信長が半年以上も包囲して落とした近江・佐和山城の城主になっています。

「織田家の双璧」と呼ばれる実力者に

織田家宿老となった長秀と勝家です。

信長のもとで頭角を表した長秀は、その後も実力を発揮していきます。そして織田家の中で重要なポジションに上り詰めたのです。

若狭一国を支配した

天正元年(1573)信長から若狭一国を与えられた長秀は、織田家初の国持大名となりました。当初国内では、長秀、粟屋氏、逸見氏が各地方の領主を務め独立の支配権を持っていましたが、軍事、治安維持、流通統制など一国単位のものについては長秀が取りまとめていたようです。中には、長秀の家臣・溝口秀勝が信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受ける例もありました。

織田家の二番家老になる

その後も長秀は高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆で戦功を挙げ、天正伊賀の乱にも従軍。また安土城の建築では総奉行を務めるなど、政治面でも大きな功績を残しました。誅殺や幽閉といった命令にも忠実に応え、京都で行われた御馬揃え(いわゆる軍事パレード)では一番に入場するという高待遇を受けたほどです。功績が認められた長秀は二番家老の地位を与えられ、それ以降、勝家とともに織田家の双璧といわれるようになりました。

本能寺の変後の長秀

信長の葬儀を描いた月岡芳年の『紫野大德寺焼香之圖』です。

信長から厚い信頼を受けた長秀ですが、本能寺の変で主君を失ってしまいます。その後の長秀はどのような行動を起こしたのでしょうか。

本能寺の変と山崎の戦い

天正10年(1582)6月2日、明智光秀の裏切りにより本能寺の変がおこります。信長の三男・信孝とともに四国出陣の準備中だった長秀は、このとき徳川家康らの接待のため軍を離れていました。大将不在の中で本能寺の変の報せを聞いた兵の多くは逃げてしまいましたが、長秀は残った兵をまとめると、光秀の娘婿・津田信澄を共謀者として殺害。その後、秀吉軍の到着を待って合流します。軍議の結果、総大将は信孝に決まりましたが、これは名目上のもので、実際には秀吉が軍を主導することになりました。こうして、長秀も加わった秀吉軍は山崎の戦いで明智軍を破り、主君の敵討ちに成功したのです。

約123万石の大名に上り詰める

歌川豊宣による賤ヶ岳の戦いの錦絵『賤ヶ嶽大合戦の図』です。

天正10年(1582)織田家の今後を問う清洲会議が開かれ、長秀は秀吉が後継者として推した信長の嫡孫にあたる三法師を支持します。秀吉と勝家が争った天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護。この戦いのあと長秀は、若狭に加えて越前と加賀2郡を与えられ、約123万石という有数の大名になりました。
しかし、それからわずか2年後の天正13年(1585)4月16日、長秀は51歳でこの世を去ったのです。

関連記事:【歴史を動かした清洲会議】その概要と武将たちの思惑とは?

長秀にまつわる逸話

長秀は一つずつ戦功を積み重ね、信長や秀吉のもとで出世していきました。質実剛健な長秀にはどんな逸話が残されているのでしょうか。

死因は腹の寄生虫だった?

長秀の死は奇怪なことで知られています。死因は腹に巣食った寄生虫で、痛みに耐えかねた長秀は腹を切り裂き二日後に死亡しました。この事実はさまざまな資料に残されており、『多聞院日記』では病気で死ぬのは無念だと腹を切ったとあり、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には腹から鳥のようなくちばしをもつ石亀に似た虫が出てきたという記載があります。

米五郎左の通称で知られる

長秀には米五郎左という通称がありました。これは織田家内で流行した家臣を讃える歌「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」が元になっており、秀吉は木綿のように質素だが重宝し、長秀は米のように必要不可欠、勝家の先鋒での勇猛さは素晴らしく、佐久間信盛は難関な殿軍(最後尾)を任せられるという意味です。
信長は酔って機嫌が良くなると、「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌いました。不動行光は名刀、つくも髪は九十九髪茄子茶入という茶器、五郎左は長秀。信長にとって長秀は、宝物と並ぶ自慢の家臣だったのです。

名刀あざ丸を所有したが……

武将にとっての刀は、武器であり誇りでもありました。ある時、長秀は名刀「あざ丸」を所有しましたが、それからというもの眼病に悩まされたといいます。
この刀はかつて熱田神宮の神職で織田方の武将だった千秋季光が所有していたもので、彼の戦死後に陰山一景が奪ったものの、その直後の織田方との戦いで両目を射抜かれたといういわくつきの品でした。
長秀は周囲の助言に従いあざ丸を熱田神宮へ奉納、それ以降は眼病も収まったそうです。

受け継がれた長秀の血筋

長秀の死後、丹羽家は西軍として関ヶ原の戦いに参加しますが、西軍が敗れたために改易され領地を失ってしまいました。しかし、徳川秀忠のとりなしで大名に復帰。幕末には新政府軍と敵対し敗北を喫しますが、降伏したことで5万石の領地が残され、廃藩置県後も華族として名を残しています。
織田家宿老に上り詰めた長秀は、地道に功績を積み重ね主君の信頼を得ました。その血筋は現在まで脈々と受け継がれています。

 

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