大河ドラマ「天地人」の主人公にもなり、全国的な有名武将となった直江兼続。
彼は決して己のために利を図ることもなく、上杉家への忠義を尽くし続けました。そこが兼続の人気の源になっています。
そんな上杉家と直江兼続の関係がどのようなものだったのか、改めてご紹介しましょう。
謙信なき後、景勝の信頼
兼続は、永禄3(1560)年に、樋口兼豊の長男として越後国坂戸城下で生まれます。
兼続たちが生まれ住んだ周辺は越後上田荘と呼ばれ、上田長尾家の勢力下でした。当時の上田長尾家の当主・長尾政景は、上杉謙信の義兄にあたります。
この政景の死後、家督を継いだ顕景が、のちの上杉景勝です。
兼続は、景勝の股肱の臣として仕えていくことになります。
子が無かった謙信は二人の養子を迎えていました。一人は、景勝。もう一人は、北条氏政の弟・景虎です。
しかし謙信はどちらを後継ぎにするか示さないまま、天正6(1578)年、急逝してしまいます。
この結果、景勝と景虎の後継争い(御館の乱)が勃発したのです。
若き武将として兼続も景勝方につき奮戦します。
この戦いは景勝方が勝利しました。天正8(1580)年頃になると、兼続は景勝の取次役として信頼を得るようになりました。
直江家を相続し、上杉家の執政として活躍
天正9(1581)年、上杉家に激震が走ります。
景勝の側近だった直江信綱が、同じ家臣の毛利秀広に殺害される事件が発生しました。
名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の妻であった船の婿養子として、兼続に直江家を相続させます。
こうして「直江兼続」が世に出ることになるのです。
兼続は、若くして上杉家の執政となり、内政・外交・軍事を統括する役目を担いました。
内政では、信濃川支流中之口川の開削で越後平野発展の基礎をつくり、軍事では新発田重家の乱平定、佐渡平定を成し遂げます。そして、外交では天下人・豊臣秀吉との折衝を行っていくことになりました。
運命の盟友・石田三成との出会い
ちょうど同時期に秀吉の取次役だったのが、石田三成でした。
兼続は、例え嫌われても豊臣家のために尽くそうとする忠義の心を三成に感じ取ったのでしょう。
それは同時に、上杉景勝に仕える自分と同じ姿勢であったはずです。
いつしか、兼続と三成は互いに盟友となっていきます。
関連記事:同い年の兼続と三成!学年別でみると分かりやすい武将の年齢まとめ
運命の関ヶ原、火ぶたを切った兼続の『直江状』
慶長3(1598)年、豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と三成との争いが激化します。
諸大名を懐柔・屈服させはじめた家康の次の標的は、当時会津120万石に移封された景勝でした。
臣従を拒む景勝を謀反の嫌疑ありと脅す家康に対し、兼続は返書を送ります。
「景勝に逆心などない。讒言である。讒言する者を調べずに景勝に逆意ありとするなら、家康様の心にこそ疚しい想いがあるのではないか」と、家康を非難するものでした。世にいう『直江状』です。
これを読んだ家康は激怒。上杉討伐を決定し、軍を会津に向けました。
その後、三成が上方で挙兵するのですが、これは兼続と三成の連携であったとも言われています。
しかし関ヶ原で西軍は敗れます。景勝も家康に降伏することになり、米沢30万石に減封処分となりました。
関ヶ原敗戦の責任をとった兼続
減封された上杉家でしたが、兼続は家臣たちの解雇はしませんでした。
開墾で米沢の発展の基礎をつくる一方、自らも質素な暮らしを実践します。
また、兼続には嗣子がいなかったのに養子を迎えず、死後断絶させました。直江家の地行を上杉家に返すための措置と言われています。
兼続の死後、上杉家では兼続は主家を誤らせた奸臣と伝えられました。
しかし、上杉家9代当主・鷹山は、兼続が行った施策をベースにして藩政改革に着手し、奇跡的な財政再建に成功します。
兼続が上杉家のために行った政策は、約200年後、再び上杉家を救ったのです。
(黒武者 因幡)
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