【暗殺された新選組初代局長:芹沢鴨】その最期と残された逸話

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【暗殺された新選組初代局長:芹沢鴨】その最期と残された逸話

歴史上には人を惹きつけてやまない存在がたくさんいますが、幕末期に活躍した新選組もその一つです。
新選組は成り立ちや信念から、今でも多くの作品で取り上げられています。そのため一度は、活躍を耳にしたことがあるでしょう。しかし隊士個人については人数が多いため、中にはよく知らない人物もいるかもしれません。その中で局長筆頭というトップの立場にあった割に、あまり多くを知られていないのが芹沢鴨ではないでしょうか。

今回は、暗殺された新選組初代局長筆頭・芹沢鴨について、暗殺事件の概要や残された逸話をご紹介します。

芹沢鴨はどんな人物なのか

新選組誕生後の初期に暗殺されたため印象が薄い芹沢ですが、どのような経緯で新選組の初代筆頭局長になったのでしょうか。

出自は謎とされている

芹沢の出自には不明点も多く前半生は謎に包まれていますが、一説では水戸藩郷士の芹沢家の出で、脱藩浪士・下村嗣司(継次)と同一人物だといわれています。
彼は神官の家系である下村家に婿入りしましたが、神官の職を捨て尊皇攘夷の戦いに身を投じました。文武両道といわれる芹沢ですが、これは若い頃に水戸藩校・弘道館で水戸学を学んだからと考えられます。

天狗党での活動と投獄

天狗党の乱を描いた歌川国輝(3代目)の錦絵『近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖』です。

芹沢は玉造村の文武館を拠点とする玉造勢(天狗党の前身)に参加しました。玉造勢は横浜での攘夷を決行しようと資金集めに奔走しますが、このとき幕府直轄地にも手を出してしまいます。
幕府は攘夷派の活動を制御するよう水戸藩に要請。これにより攘夷派が更迭され保守派が藩の実権を握ると、玉造勢は水戸藩から弾圧されるようになります。200人以上の配下を抱えていた下村も、投獄され処刑を言い渡されました。
ところが情勢の変化により攘夷派が政治の主導権を取り戻し、下村は大赦令により解放されたのです。下村の消息はここで途切れ、それ以降、芹沢鴨という男が歴史に登場します。

壬生浪士で初代筆頭局長になる

文久3年(1863)清河八郎の発案により、将軍上洛の警護のため浪士隊が江戸で結成されました。芹沢は平山五郎、新見錦、平間重助らとこれに参加し、剣術道場・試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに上洛します。
しかしその後、清河が浪士らを朝廷の直属にし、反幕勢力にしようとする策略を演説。この清河のクーデターに反対し、芹沢らは脱退を決意するのです。試衛館一派と京都に残った芹沢は、壬生村の八木家を屯所として、残った者で会津藩御預かりの「壬生浪士」を結成します。このとき芹沢鴨が筆頭局長に、近藤勇と新見錦が局長となりました。

芹沢鴨、八木邸で暗殺される!

新選組発祥の地であり芹沢暗殺の舞台となった京都市中京区の「八木家」です。

投獄を免れ壬生浪士の筆頭局長になった芹沢ですが、その後は暗殺されてしまいます。一体どのような理由があったのでしょうか。

暗殺事件の経緯

文久3年(1863)9月16日、新選組は島原の角屋で宴会を開きました。芹沢は土方、平山、平間とともに角屋を後にし、壬生の八木家で再度宴会をしたといいます。この席には芹沢の愛妾・お梅らもおり、泥酔した芹沢らは女たちと床につきました。これが後に、芹沢の死に直結することとなります。

凄惨な最期を遂げる

雨が降る深夜、酒に酔った芹沢の部屋に近藤派の土方、沖田ら数名の隊士が突入しました。彼らは同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢のことも斬りつけます。驚いた芹沢は飛び起きて刀を手にしようとしたものの、それが叶わず裸のまま逃げ回りました。
八木家の親子が眠る部屋に飛び込んだものの、芹沢は斬りつけられ死亡。平山は胴と首が斬り離されており、芹沢と同衾していたお梅も首を斬られ絶命しました。

芹沢が見限られた理由とは?

芹沢の死後、新選組局長として名を馳せた近藤勇です。

この頃の彼らは会津藩御預かりの「壬生浪士」として、活動も軌道に乗りつつありました。しかし芹沢は商家へ強引な金銭の要求をしたり、目に余る酒癖の悪さを露呈したりと、近藤らにとって頭の痛い存在になっていたのです。そのため芹沢は、会津藩の密命を受けた近藤派の隊士らによって粛清されました。一説には、水戸学を学び、過激な尊王攘夷思想を持っていた芹沢を危険視したともいわれています。

芹沢の人物像がわかる豪快な逸話

芹沢は新選組の歴史の中でもすぐに存在が消えたため、どのような人物だったか疑問に感じる人も多いでしょう。ここでは芹沢の残された逸話をご紹介します。

八月十八日の政変でみせた豪胆さ

文久3年(1863)八月十八日の政変が起こります。『新選組遺聞』によれば、このとき芹沢は御所警備の隊士を率いて出動しましたが、御門を固めていた藩士は壬生浪士を知らなかったため槍を構えて通さなかったといいます。しかし芹沢は大笑いしながら進み、藩兵が槍を突きつけると鉄扇で煽ぎました。駆けつけた軍奉行によりその場は収まりましたが、悠然と門を通り抜けた芹沢の豪胆さに人々は驚いたそうです。

神道無念流の師範代

『新編 埼玉県史図説』より、戸賀崎熊太郎暉芳の肖像です。

剣豪ぞろいの新選組の中でも、芹沢もかなりの剣の使い手でした。彼は神道無念流の戸賀崎熊太郎に剣を習い、免許皆伝を受け、師範代を務めていたといわれています。カ士を斬り捨てたという事件では肩からへそまで一刀両断し、その斬り口はあばらを砕くほど凄まじかったそうです。

酒豪でいつも飲んでいた!

酒豪の芹沢は昼から酒を飲んでおり、酔っていないことはないといわれるほどだったそうです。酒で問題を起こすこともあったため、隊士らは頭が痛かったでしょう。芹沢は背が高く太っており、剣の腕は師範代レベル。そんな彼が酒に酔って暴れたら、正面から止められる人はなかなかいなかったのかもしれません。

陽気で子供に好かれる一面も

手のつけられない悪漢のイメージが強い芹沢ですが、八木家の娘が若くして亡くなった際には、進んで葬儀を手伝いました。また、暇潰しとして子どもたちに面白い絵を書くこともあり、陽気で好かれる一面もあったようです。

今でも残る柱の刀傷

新選組はその後さまざまな活躍をして歴史に名を残しました。そのため、現在でもゆかりの地を訪れる人が絶えません。
芹沢が暗殺された京都の八木邸は現存しており、机など当時の配置のままで残されています。京都に訪れる際は、当時に思いを馳せながら新選組屯所跡で歴史に触れてみるのもいいかもしれません。生々しい刀傷も残されているため、新選組をより身近に感じられるでしょう。

 

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