戦国大名の後北条氏は、約100年にわたり関東で栄華を誇りました。その初代は北条早雲ですが、中興の祖とされるのが3代目の北条氏康です。
甲斐・武田信玄、越後・上杉謙信、駿河・今川義元とともに熾烈な領土争いを繰り広げたことで有名な氏康ですが、領国経営においてもさまざまな功績を残したことをご存知でしょうか?
文武兼備の名将だった氏康はどのような人物だったのか、その生まれや活躍、残された逸話についてご紹介します。
氏康の生涯と代表的な戦い
戦国時代、伊豆・相模・武蔵・上野と4つの国を支配し後北条氏の全盛を築いた氏康。その生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか。
家督を継いで第3代当主に
氏康は永正12年(1515)北条氏綱の嫡男として生まれました。初代の早雲にとっては孫にあたります。享禄3年(1530)小沢原の戦いで初陣を果たし大勝を収めた彼は、その後も甲斐山中合戦などの戦いで功績を重ねました。天文7年(1538)の第一次国府台の戦いでは、父と共に敵の総大将を討つなど活躍しています。
天文10年(1541)氏綱が死去すると、家督を継承して後北条氏第3代当主に就任しました。
河越城の戦いに勝利する
天文14年(1545)今川義元が父・氏綱に奪われた東駿河を奪還すべく挙兵します。氏康は駿河に急ぎましたが、今川軍に押され状況は不利でした。それに加え、義元と組んでいた山内上杉家の関東管領・上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定らが、義弟・北条綱成が守る河越城を包囲します。東西からの挟み撃ちに陥った氏康は、武田信玄の斡旋により義元と和睦。東駿河の河東地域を割譲することになりました。
しかし、関東では両上杉氏に加えて氏康の義兄弟だった古河公方・足利晴氏も敵方にまわり、河越城の包囲に加わります。約8万人の連合軍に包囲された河越城は半年ほど籠城戦に耐えましたが、義元との戦いから関東に戻った北条本軍は1万人未満の兵力しかなく圧倒的に不利でした。
そこで氏康は、河越城の返上と降伏を申し出て油断させると、綱成と連携して夜襲をかけます。連合軍は混乱のうちに敗走し、勝利した氏康は関東の主導権を確保しました。この河越夜戦は、桶狭間の戦い、厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つといわれています。
このとき敗走した憲政は、北条征伐を条件として関東管領職と上杉姓を越後・長尾景虎に譲渡。景虎は上杉謙信と名乗り、関東に侵攻します。氏康は武田家や今川家と同盟を結び、謙信と戦い続けることになりました。
隠居とその最期
永禄2年(1559)氏康は嫡子・氏政に家督を譲り隠居しますが、その後も小田原城に残り、氏政を後見しながら政治や軍事の実権を握り続けました。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、信玄の駿河侵攻が始まります。またその4年後には、上総国などの支配をめぐり里見義堯(よしたか)・義弘父子と対立しました。
隠居後も数々の戦いに身を投じた氏康でしたが、永禄9年(1566)以降は多くの戦を息子らに任せるようになります。また元亀元年(1570)の夏頃からは半身不随や言語障害と思われる症状になり、最期は小田原城で死没しました。
外交や内政にも手腕を発揮!
“相模の獅子”の異名をもつ氏康は、戦いだけではなく外交や内政でも大きな結果を残しました。ここではその功績を振り返ります。
甲相駿三国同盟を結んだ
氏康は、甲斐の信玄、駿河の義元とともに「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」という和平協定を結びました。攻守軍事、相互不可侵、領土、婚姻といった要素からなり、幾度となく戦を繰り返しながら完成したこの協定は、当時の東国情勢に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
検地を徹底し税制改革を行った
氏康は徹底した検地を行い、税制改革にも熱心に取り組みました。領民の負担軽減にも尽力し、それまで継続されてきた諸点役(しょてんやく)という多様な税を整理。貫高の6%の懸銭を納めさせることで、不定期の徴収から領民を解放したのです。
また租税を50文から35文に減額し、凶作や飢饉が起こったときは年貢を減らしたり免除したりしました。
通貨と度量衡を統一した
当時は全国的に良質な永楽銭が不足し悪銭が増加していましたが、氏康は他大名に先駆けて永楽銭への通貨統一を進めました。地域ごとに異なっていた枡も遠江の榛原枡を公定枡と定め、度量衡を統一しています。また、誰でも直接不法を訴えられるよう目安箱も設置しました。
小田原城下町の都市開発を行った
氏康は小田原の城下町を発展させるために、全国から職人や文化人を呼び寄せて大規模な都市開発を行いました。清掃にも気を遣い清潔な都市となった小田原の城下町は、東国最大の都市といわれるほどに成長したのです。
京都南禅寺の僧・東嶺智旺(とうれいちおう)は「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」とその様子を記しています。
残された逸話
関東覇者として君臨した氏康は、ほかの武将たちからも一目置かれる存在でした。そんな彼の人物像がわかる逸話をご紹介します。
諸将が恐れた氏康傷
氏康の顔面には2つの傷があったといわれています。これは戦場で常に先陣をきり、敵に背を向けず正面から立ち向かったことを示すものです。諸将はこの向こう傷を「氏康傷」と呼び、その武勇を称えました。また身体には7つの刀傷もあったといわれています。
12歳で堂々たる態度を会得
猛将と名高い氏康ですが、『北条五代記』によれば、12歳の頃に武術の調練を見て気絶したことがあったようです。このとき氏康は、家臣の前で恥を晒したといい自害しようとしました。しかし家老が「初めて見るものに驚くのは当然で恥ではない、むしろあらかじめの心構えが大切なのだ」と忠言したため、以降の氏康は常にしっかりと心構えをし、堂々とした態度をとったということです。
民衆に慕われた実力者
信玄、義元、謙信らとしのぎを削った氏康は、戦国を代表する勇猛果敢な武将の一人でした。また、民意を積極的に取り入れ善政を敷いた名将としても知られています。
氏康の政治手腕は称賛され、のちに関東に入った徳川家康はこれを踏襲し15代に及ぶ徳川治世の基にしたといわれています。関東の覇者として君臨した氏康が後世に与えた影響は大きいといえるでしょう。
<関連記事>
【こちらも大河ドラマ化、熱望!!】関東の覇者が「北条」を名乗った理由とは?
【武田勝頼の妻:北条夫人】夫とともに自害で果てた壮絶な最期
【今川義元の最期と首】信長による奇襲!桶狭間の戦いの結末
コメント