10月13日は「麻酔の日」。なぜかというと、記録に残るものとしては、文化元年(1804)のこの日、世界で初めて全身麻酔手術が成功したからなんです。この偉業を成し遂げたのは江戸時代の医師・華岡青洲。今から210年以上も前のことでした。手術を受けるのに「麻酔がなかったら」と考えてみると心底ゾッとしてしまいますね。医聖・華岡青洲に感謝しつつ、その事績をひもといてみましょう。
漢学と蘭学をミックス!華岡流医術
華岡青洲が生まれたのは江戸後期の宝暦10年(1760)。11代将軍・徳川家斉の時代です。生地は紀伊国那賀郡(和歌山県紀の川市)。青洲の父親も医者でした。当時は蘭学隆盛の世。前野良沢と杉田玄白によって「解体新書」が書かれたのは、青洲が13歳の時でした。学者だけでなく医者も、蘭方医学を積極的に取り入れ始めていました。
23歳になった青洲は燃え上がる向学心を胸に京都へ。漢方医学と蘭方医学を猛勉強しました。約3年後、故郷に戻った青洲は父の診療所を継ぎます。日々の診療のかたわら、京都で学んだ漢方と蘭方の良い所を取り入れた医学研究を続け、「華岡流医術」を確立しました。名医の名が世間に知られるようになり、紀州藩の藩医となるよう要請されてからも、診療所に住み続け、地元の人々の診療に生涯従事しました。
麻酔薬完成の影にあった家族の絆
青洲は京都遊学時代に、三国志時代の中国人医師・華陀(かだ)が麻酔薬「麻沸散」を用いて外科手術を行っていたらしいことを知ります。自分も「麻沸散」を作り外科手術を行えば、多くの人を救うことができる、と青洲は考えました。
しかし、「麻沸散」の作り方については「曼荼羅華(まんだらげ。チョウセンアサガオ)」を主成分としていたらしい、ということしか伝わっていません。青洲は毒性が強い「曼荼羅華」を安全に処方できるよう、さまざまな薬草との組み合わせを試行錯誤し、動物実験などで効果をテストし続けました。
そして、人間に対する麻酔効果を確かめなければならなくなった時、青洲の母と妻が自らを実験台にするよう申し出ます。数回にわたる人体実験の末、母の死、妻の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成させました。
文化元年(1804)10月13日、青洲はその「通仙散」を用いて乳癌患者の女性の外科手術を行い、成功させます。以降、青洲は「通仙散」の改善を重ね、麻酔を用いた多くの外科手術を行いました。
世界初・・・なんです?
ついに、全身麻酔手術を成功させた青洲。これは1846年にアメリカ人医師のモートンがエーテルを用いた麻酔外科手術より40年以上前のことでした。
ただ、先述の通り、それ以前にも、青洲が目標とした麻酔薬「麻沸散」を作ったという華佗が、腹部開腹手術を行ったと「三国志」に記述があります。また、古代インカ帝国で行われていた頭蓋骨に穴を開ける手術には、コカインを用いて意識を混濁させたともいわれています。
しかし、華佗についても、古代インカ帝国についても、信憑性の高い史料が残されていないのです。実際の全身麻酔手術のきちんとした記録としては、青洲のものが世界最古、ということになっています。
江戸の医術は門外不出!?
画期的な麻酔外科手術に成功した青洲の名は全国に知れ渡り、各地から弟子志願者が青洲の診療所へ押しかけてきました。彼らに華岡流医術を教えるため、青洲は自宅に「春林軒」という医学塾をつくります。
江戸時代の医師は現代と違って免許などは必要ありませんでした。医師のもとに弟子入りし、知識と技術を学んだのです。当時の医術は「○○流」と名乗っていて、武道や茶道などと同じく流派ごとに秘伝がありました。教えられた医術の秘伝は門外不出、という厳しいルールがあり、華岡流もその例に漏れません。
青洲の弟子の中でも優秀だった本間棗軒(そうけん。通称・玄調)は、この禁を破ったために破門されています。棗軒は、天保6年(1835)に青洲が76歳で没した後すぐに、教えられたことを詳細に記した「瘍科秘録(ようかひろく)」などの書を刊行しました。
「通仙散」が用法の難しい麻酔薬だったため青洲は秘伝としていたのかもしれませんが、棗軒によって華岡流医術の内容が世に出たことで、流派ごとに閉じられていた江戸時代の医療が発展していくことになったのです。
華岡青洲の偉業を顕彰して、日本麻酔学会は曼陀羅華の花をシンボルマークにしています。青洲の麻酔手術以前、外科手術を受ける人は、激痛に耐えて治療を受けていました。その恐ろしさから手術を拒む人が多かったことでしょう。青洲の麻酔薬は、多くの人を痛みと病の苦しみから救ったのですね。
(こまき)
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