【長篠の戦いとは?】概要や影響をわかりやすく!

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【長篠の戦いとは?】概要や影響をわかりやすく!

安土桃山時代を象徴する人物の一人が織田信長です。有力武将たちを倒し、徐々に勢力を強めていった信長の戦いはどれも重要ですが、数も多く背景も複雑なため、なかなか覚えられない人も多いでしょう。

ここでは、日本で戦術的・組織的に初めて鉄砲が使われたことで知られる「長篠の戦い」について、概要、目的、その後の影響などについてまとめます。

押さえておきたいポイント

・織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の合戦
・日本で鉄砲が戦術的・組織的に使われた、最初の戦いとして知られている
・当時の鉄砲は連射できなかったため「三段撃ち」が編み出されたとされている

長篠の戦いの背景・経緯

長篠の戦いはなぜ起こったのでしょうか?
その理由を知るためには、武田軍の事情も理解しておく必要があります。
この戦いの背景と経緯について振り返りましょう。

戦いの背景

高野山持明院蔵の武田勝頼像です。

武田勝頼の父は、あの有名な武田信玄です。武田軍は信玄が生きていた頃から京を目指して進軍していましたが、元亀4年(1573)信玄が病死してしまいます。跡を継いだ勝頼は、信長や家康の領地だった明知城、高天神城、足助城などを落城させました。さらに、家康の領地で三河北部の重要拠点だった長篠城も攻めたのです。
長篠城を入手すれば、家康から三河北部を奪えるかもしれません。その他にも、三河東部、遠江など、家康の領地を武田家が支配できる可能性が高まります。そのような野望から何度も長篠城を包囲して攻撃したのです。

戦いの経緯

月岡芳年による、長篠城を脱出する密使・鳥居強右衛門の錦絵です。

長篠城は信州から三河の入口にあたる場所だったため、家康はなんとしても武田軍を阻止する必要がありました。長篠城を守っていたのは、城主・奥平貞昌(後の奥平信昌)です。その兵力はわずか500人ほどでしたが、長篠城には鉄砲や食糧が豊富にあり、地形にも恵まれていました。しかし、武田軍の猛攻は激しく、長篠城はあと数日で落城という危機に陥ってしまいます。そこで貞昌は、家康のいる岡崎城に密使を送って援軍を要請しました。

知らせを受けた家康は、同盟相手の信長に援軍を頼みます。当時勢力を拡大していた信長にとって、脅威だった武田家との対戦はとても重要なものでした。このとき信長は「この説根切り、眼前に候(武田の根絶は目前だ)」と言ったといわれています。こうして信長による救援部隊が到着すると、武田軍は苦戦を強いられることになったのです。

長篠城手前の設楽原に着陣した織田・徳川軍は、空堀や断崖をつくり、正面から武田方を誘いこむ作戦を実行しました。地形の関係上、武田陣営を遠くまで見渡すことはできませんでしたが、信長はそれを逆手にとります。3万人もの軍勢をとぎれとぎれに布陣させ、敵から見えないようにしたのです。さらに4000人の別動隊も準備し、開戦と同時に武田軍を攻撃しました。

一魁斎芳年(月岡芳年)の「長篠合戦 山縣三郎兵衛討死之圖」(長篠の戦い・山県昌景)

一方、信長が到着したという知らせを受けた武田軍は軍議を開いたものの、信玄時代からの重臣と勝頼の側近とで意見が分裂。信玄時代からの重臣で、武田四名臣ともいわれている山県昌景、馬場信春、内藤昌秀たちは撤退を進言しましたが、勝頼の側近は戦うことを支持しました。勝頼は設楽原に軍勢を動かして攻撃するという側近たちの意見を選択し、長篠城に3000人、残りの1万2000人を設楽原に向かわせます。

勝頼がこのような無謀な決断をした裏には、信玄でさえ成し遂げられなかった信長の首をとろうという考えがあったようです。また、それまでの戦いで連勝し、士気があがっていたことも関係していたのでしょう。しかし、この自信は裏目に出てしまいます。古くからの武田家重臣たちは勝頼の決定に敗戦を予感し、死を覚悟しながら皆で酒を飲んで別れを惜しんだそうです。

武田軍は騎馬隊が強く有名ですが、織田軍はこれを鉄砲隊で迎え撃ちました。武田騎馬隊の突進を馬防柵でおさえ、動きが止まったところを鉄砲で攻撃したのです。当時の銃は撃ったあとに弾を込め直す必要があったため、連発はできません。そのため信長は、鉄砲隊を横3列に並べて、次々と入れ替える三段撃ちを行ったのです。この戦いは8時間にもおよぶ激戦となり、最後は織田・徳川連合軍が勝利しました。

長篠の戦いでは3000丁の鉄砲が使われたといわれていますが、信長の家臣が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』や現地の発掘調査結果から、現在その説は疑問視されています。
また武田家はこの戦いで1万人以上の死傷者を出したといわれており、信玄時代からの重臣を多く失いました。とくに、武田四天王とよばれる武将らを失ったことは、大きな痛手だったでしょう。

登場人物

【織田・徳川連合軍】
・織田信長
・徳川家康

【武田軍】
・武田勝頼

戦の概要

交戦勢力:織田・徳川連合軍VS武田軍
兵力:織田&徳川勢3万8000人、武田勢1万5000人
場所:三河国長篠城・設楽原(愛知県新城市長篠)
勝敗:織田・徳川連合軍の勝利
年月日:天正3年5月21日(1575年6月29日)

何が変わったのか?

天文8年(1580)石山合戦が終結した際、信長が顕如と交わした血判誓紙です。

長篠の戦いに勝利した信長は、越前一向一揆を平定して石山本願寺と和睦します。こうして自分に反発する勢力を屈服させたことで、信長は天下人として台頭していったのです。また家康は、勝頼に奪われた城を取り返して三河の実権を完全に掌握しました。

敗北した勝頼は外交方針を再建し、相模の後北条家と甲相同盟を結びます。越後の上杉家との関係強化や佐竹家との甲佐同盟も締結し、里見家ら関東諸族たちとも外交関係を強めていきました。
しかし7年後には、信長・家康・北条氏政らによる武田征伐が始まり、ついに武田家は滅亡に追い込まれるのです。

まとめ

長らく猛威をふるってきた武田家は、天下統一を目指す信長にとって脅威となる存在でした。しかし長篠の戦いで勝頼を破ったことで、信長はまた一歩、天下人へのコマを進めたのです。
一方この戦いに大敗した武田家は、徐々に衰退して滅亡へと進んでいきます。信玄時代から仕えていた重臣たちの意見を聞き入れていたら、また違った結果になっていたかもしれません。
長篠の戦いは、信長をさらに天下人へと押し上げた反面、武田家滅亡のきっかけを作った戦いといえるでしょう。

 

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