足利義輝は室町幕府の第13代将軍として活躍した人物です。足利尊氏が創始した室町幕府は237年も続きましたが、6代目の足利義教が暗殺されてからは管領の細川氏やその家臣・三好長慶に実権を奪われ、将軍はあやつり人形のようになっていました。
義輝はそんな状況を打破すべく将軍復権に尽力したことでも知られており、その壮絶な最期は歴史小説にも描かれるほどです。今回は、義輝の生い立ちや活躍、また人物像についてご紹介します。
生まれから将軍就任まで
義輝の生まれはどのようなものだったのでしょうか。激動の幼少期を振り返ります。
11歳で幕府将軍職を譲られる
義輝は、天文5年(1536)12代将軍・足利義晴の子として、京都の東山南禅寺で誕生しました。幼名は菊童丸といい、将軍と正室の間に生まれた男子は9代将軍・義尚以来、また摂関家出身の母を持つのは彼が初めてでした。
天文15年(1546)菊童丸はわずか11歳で幕府将軍職を譲位されます。これには、自分が健在なうちに地位を譲って後見しようという父・義晴の考えがあったようです。
将軍就任式は近江坂本の日吉神社で行われ、元服以降は義藤と名乗りました。
細川晴元と和睦して帰京
義輝が幼いころ、父・義晴は管領の細川晴元と権威争いを繰り広げていました。晴元は同族の細川高国と家督争いをしており、高国が将軍・義晴を擁立したため、対立関係に陥っていたのです。
義晴は戦で負けるたびに近江坂本に逃れ、京への復帰と坂本・朽木への脱出を繰り返しました。義輝もそれに従ったため、将軍家の嫡男は伊勢氏邸宅で養育される慣例だったものの、彼は両親のもとで育てられました。
慌ただしい環境で育った義輝ですが、天文17年(1548)父・義晴が晴元と和睦したため京に戻ります。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾しました。
将軍復権を目指し奔走
将軍として帰京した義輝は、足利将軍家の復権を目指します。しかし、それは一筋縄ではいきませんでした。
三好長慶と対立するが…
晴元は高国を討ち権力基盤を築きましたが、その後も細川家の闘争は続き、義輝はこの戦いに巻き込まれます。
亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、晴元の家臣・三好長慶が離反し氏綱に味方しました。そのため義輝は長慶と対峙しますが、戦局はなかなか好転せず長慶暗殺を図るも失敗。天文21年(1552)ようやく長慶と和睦すると、義輝は京都に戻りました。これにより長慶は幕臣に取り立てられ、晴元は京を脱出しています。
戦国大名との修好に尽力する
幕府権力の復活を目指していた義輝は、戦国大名らと親しい関係を築きました。有力武将同士の抗争が起きた際は頻繁に調停を行い、場合によっては守護などに任命することもありました。
また、自分の名前の一部である「藤」や「輝」の字を家臣や諸大名に与えるだけでなく、さらには、足利将軍家の通字「義」を与えることもあったようです。
永禄の変で散る!義輝の最期
将軍家に尽くした義輝は「永禄の変」で命を落とします。この戦いはどのような経緯で起こったのでしょうか。
松永久秀・三好三人衆と激突
義輝は激しい戦局を潜り抜け将軍復権に尽力しましたが、そのような動きを疎む人物がいました。それは飾り物の将軍を擁立しようと企てていた松永久秀と三好三人衆です。
彼らは義輝の叔父・足利義維と組み、その嫡男で義輝の従兄弟にあたる義栄を新将軍にしようしていました。しかし、朝廷は耳を貸さなかったため、将軍への直訴として永禄8年(1565)約1万人の軍を率いて二条御所に侵入したのです。この「永禄の変」で義輝は自ら奮戦しましたが、最後は一斉に襲い掛かられて殺害されました。
多くの群衆がその死を悼んだ
義輝の死後、京都の天台宗の寺院・真正極楽寺(真如堂)で、義輝を弔う仏事が行われました。ここでは民間芸能の六斎踊りが披露され、摂津や近江坂本から集った約3000人が鉦鼓(しょうこ/念仏の時にたたく青銅製のかね)を鳴らし、身分を問わず7~8万の人々がその死を悼みました。これには三好三人衆政権への抵抗の意味もあったと考えられています。
語り継がれる人物像とは?
将軍でありながら生涯で多くの戦いを経験した義輝ですが、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
武勇に優れた果敢な人物
義輝は『足利季世記(あしかがきせいき)』や『日本外史(にほんがいし)』で、武芸に秀でた剣豪として描写されています。この人物像は後世の創作といわれていますが、宣教師ルイス・フロイスもその著書のなかで「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と称えているため、勇猛果敢な人物だったことは確かでしょう。
塚原卜伝も認めた剣の腕前
義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。必ずしも奥義を極めたとは言い切れませんが、このような側面からも武術に秀でた人物だったと想像できます。
義輝は剣豪将軍の異名でも知られていますが、そのような名前が付けられたのも剣術に優れていたからでしょう。
最期は名刀で奮戦!
永禄の変で、義輝は多数の日本刀を用いて奮闘したとされています。ルイス・フロイスの『日本史』には「自ら薙刀を振るい、その技量の見事さに人々は驚いた。その後は薙刀を投げ捨てて刀を抜いて戦った」と描かれ、『日本外史』には「足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」という記述がみられます。
使用されたのは「鬼丸國綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」など名刀ばかり。しかし、これらの名前が登場するのは歴史小説の中で、信憑性の高い史料には見当たらないようです。
このような創作をされるほど、義輝は人々を魅了する存在だったのでしょう。
誇り高き室町幕府将軍
長らく名ばかり将軍となっていた足利将軍家ですが、義輝は復権に尽力し親政を行いました。しかし、次期将軍となった弟・義昭により、将軍は再度飾り物になってしまいます。そして、織田信長の台頭により、ついに室町幕府は滅亡するのです。
多くの戦国武将たちがしのぎを削りあうようになったこの時期に、足利将軍として義輝が果たした役割は大きいでしょう。最後まで果敢に戦った義輝は、誇り高い将軍だったといえそうです。
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