幕末に活躍した新選組は歴史ファンを魅了してやまない存在です。彼らの生き様には、共感したり憧れたりする人も多いでしょう。
新選組には多くの有名な志士がいますが、その中でも若くして能力を発揮したのが八番隊組長の藤堂平助です。しかし彼は、新選組として人生を終えることはありませんでした。平助の人生はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、平助の生い立ちや活躍、その最期や人物像についてご紹介します。
若くして剣術に秀でる
平助は幼い頃からかなりの剣の腕前だったそうです。では、新選組に加入する前は、どのような人生を歩んでいたのでしょうか。
出自は諸説ある
平助は天保15年(1844)武蔵国で誕生し江戸で育ったといわれています。正式な名前は藤堂平助宜虎(よしとら/のぶとら)。出自は諸説ありますが、旗本5000石の藤堂家の出身というのが有力説です。
永倉新八の『同志連名記』では伊勢津藩主・藤堂高猷の落とし子ともいわれ、これが正しければ戦国武将・藤堂高虎の子孫ということになります。平助の刀が上等な品だったこともこの説を裏付ける証拠とみられています。
十代半ばで目録を取得
千葉周作の道場・玄武館に入門した平助は、北辰一刀流の中目録(免許に相当)を十代半ばで取得。同流派の伊東甲子太郎(かしたろう)の伊東道場にも出入りし、その後は近藤勇の試衛館に入門して天然理心流を学びました。ここでは代稽古を任されるなど、かなり見込まれていたようです。
新選組で斬り込み隊長として活躍
剣術を磨いた平助は、やがて新選組として活躍することになります。平助はどのような働きをしたのでしょうか。
最年少幹部の一人に!
試衛館で近藤らと出会った平助は、近藤やその門下生たちとともに浪士隊に参加し京都に向かいました。その後、新選組で副長助勤(局長、副長に次ぐ立場とされる)と八番隊組長を勤めます。『新撰組顛末記』によると、平助は斎藤一とならんで最年少幹部だったようです。若いながらも重要な役職を歴任したことから、平助がどれだけの実力者だったかがうかがえるでしょう。
池田屋事件で危篤状態に陥る
元治元年(1864)長州藩・土佐藩の尊攘派の浪士たちを襲撃した池田屋事件が起こります。平助は近藤勇、沖田総司、永倉新八とともに突入部隊に加わり、1階の中庭付近を持ち場として奮戦しました。
この戦いで平助の刀はぼろぼろになり、鍔元(つばもと)には修復できないほどのひびが入ったといいます。また敵の浪士に額を割られて昏睡状態に陥るなど、一時は生死をさまよいました。
この戦いで評価された平助は、幕府から20両の褒賞金を与えられます。これは近藤、土方に次いで多い額でした。
伊東甲子太郎を新選組に勧誘
池田屋事件の翌月、憤慨した長州藩が京都御所に突入する「禁門の変」が勃発します。傷の具合は不明なものの、平助もこの戦いに参加したようです。
その後、新選組の新規隊員を募る命を受けた平助は、京都から江戸に向かいました。そこで、以前から付き合いのあった伊東甲子太郎の勧誘に成功します。この勧誘は、のちに平助の人生を左右することになりました。
新選組から御陵衛士へ
新選組で重要な役割を担っていた平助ですが、やがて大きな転機が訪れます。この行動が彼の運命を決定づけたといえるでしょう。
伊東とともに新選組を離脱
慶応3年(1867)強い勤王倒幕思想をもつ伊東は、新選組から離脱し「御陵衛士(ごりょうえじ)」という新しい組織を作ります。これは表向きには、亡くなった孝明天皇のお墓の護衛や、薩摩・長州の動きを探り新選組に協力することを目的とした組織でした。東山の高台寺に屯所があったことから「高台寺党(こうだいじとう)」とも呼ばれています。
御陵衛士には新選組から14名が引き抜かれ、伊東の思想に心酔していた平助もこの組織に参加しました。
御陵衛士の陰謀が発覚!
新選組から御陵衛士になった人物の中には斎藤一もいました。しかし彼は、実は新選組のスパイだったのです。
斎藤は御陵衛士の内情を近藤や土方に報告しており、やがて伊東の計画は新選組側にバレてしまいます。その計画とは、新選組を襲撃して近藤と土方を殺害し、隊士らをそのまま御陵衛士に取り込むというものでした。この計画を知った近藤らは伊東の暗殺を決意します。
伊東殺害と油小路事件
近藤らは口実をつけて伊東を呼び出し、帰宅途中の七条油小路で刺殺しました。その知らせを受けて駆け付けた平助ら7人の同志たちは、新選組隊士に包囲されながら死闘を繰り広げます。
永倉は「藤堂は惜しい人材だからできれば殺さないように」という命令を受けていたため平助を逃がそうとしましたが、新人隊士が致命傷となる深手を負わせました。平助の遺体は2日間放置された後に葬られたといわれています。
平助はどんな人物だったか?
新選組で重要なポジションにあった平助ですが、その人物像はあまり知られていないかもしれません。平助はどのような人物だったのでしょうか?
容姿端麗で童顔の持ち主
島津家家臣による『京師騒動見聞雑記録』には「壬生浪士の藤堂平助は、藤堂和泉守の妾腹の末子と噂されており非常に美男子である。今年十七歳」という記述があります。
また新選組隊士の証言によると、「小兵」だったようで、当時の成人男性の平均身長に満たないくらいの身長だったことが予想されます。
文武両道な人物だった
剣の達人として有名な平助ですが、学問や経済感覚にも優れていたようです。複数の人物がそのような証言をしているため、文武両道な人物だったといえるでしょう。
ただし品行に関しては、近藤から叱られていたという証言もあります。どんなことをして、叱られたのかは定かではありませんが、今で言うやんちゃな青年だったようです。
その一方、平助は新選組で「魁先生(さきがけせんせい)」と呼ばれていました。これは戦闘の際に先陣を切っていたことに由来しており、勇猛で血気盛んな性格だったことを示しています。
短くも濃い人生を送った
わずか24年で最期を迎えた平助。歴史に登場したのはわずか5年程度ですが、その名は広く知られています。彼は己の信念を貫いたものの、最期はかつて仲間だった新選組隊士によって命を落としました。数奇な運命を辿った彼の人生は、短いながら濃いものだったといえそうです。史料も少なく謎な部分も多い人物ですが、今後も平助の名前は語り継がれていくでしょう。
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