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【 新選組最後の粛清 】「奸賊ばら!」油小路で暗殺された伊東甲子太郎

【 新選組最後の粛清 】「奸賊ばら!」油小路で暗殺された伊東甲子太郎

11月18日は、伊東甲子太郎(いとう かしたろう)の命日です。
新選組においての伊東甲子太郎は、一般的には悪人や策士のイメージで描かれることが多いと思います。しかし、甲子太郎の行動や思想は、実は坂本龍馬と重なります。ここでは、フィルターを外して伊東甲子太郎という人物を見ていきましょう。

剣客・伊東甲子太郎

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1835(天保5)年、甲子太郎(名前は変わっていきますが甲子太郎で統一)は常陸国の小藩・志筑藩の鈴木家に生まれます。しかし、父は家老と対立して鈴木家は一家そろって藩を追放されてしまいます。父は小さな塾を営む一方、成長した甲子太郎を水戸に遊学させました。そこで甲子太郎は、尊王思想を学ぶのです。

遊学を終えた甲子太郎は江戸の北辰一刀流伊東道場に通い、免許を皆伝されました。また、道場主である伊東誠一郎に力量と人柄が見込まれ、婿養子となって道場を継いだのです。この道場に門弟として通ったのが藤堂平助でした。

新選組入隊、しかし…

甲子太郎は、剣客にして学識深く、性格も穏やかな人物だったそうです。水戸で学んだ同士たちから天狗党の乱に参加を求められても断っています。甲子太郎は、尊王攘夷思想を是としながらも、日本人同士が争うことは嫌っていたのです。

1864(元治元)年、先に新選組に入隊していた藤堂平助から新選組入隊を要請されました。当時、過激な浪士たちの行動に嫌気がさしていた甲子太郎は、京都の治安維持にあたっていた新選組に好感をもっていたと思われます。
甲子太郎は希望を胸に、弟や同志を連れて京に上りました。

参謀として新選組に迎えられた甲子太郎は、その人柄で隊士たちから慕われました。局長の近藤勇も歓迎します。しかし、甲子太郎の希望はすぐに消えてしまいます。近藤や土方歳三らの活躍もまた反対派を粛清するものであり、内部の隊士たちにすぐ切腹させる手法は彼には考えられませんでした。特に、人柄が似ていて親しくなった山南敬助の切腹は衝撃だったでしょう。

――ともに和していかねばならぬ者同士が殺し合って何になる――

毎年、山南敬助を弔う山南忌を行う新選組屯所跡である旧前川邸

毎年、山南敬助を弔う山南忌を行う新選組屯所跡である旧前川邸

新選組脱退、御陵衛士に

1867(慶応3)年、悩む甲子太郎のもとに、孝明天皇の御陵警備の役目の打診が届きます。尊王思想を大事にする甲子太郎に否やはありません。そこで、近藤勇と話し合いの末、同士14名を率いて新選組を脱退します。
ただこの時、甲子太郎の人の好さが仇となります。
近藤たちが自分たちの行動を理解してくれていると感じ、新選組の皆とも、いずれはわかり合えると思ってしまったのです。

御陵衛士として朝廷や西国諸藩に接近した甲子太郎は、朝廷や有力者らに建白書を送ります。特に大政奉還後に提出した建白書は今後の方針につき
①一和同心(日本人が一致協力)の大切さを説き、議会を起こすことを求める
②公卿を政権に揃えること
③大開国大強国(さらなる開国を死して国を富ませ、国民皆兵で強国を目指す)
ことなどを説いています。
この時代に真っ向から武力倒幕を否定した思想は坂本龍馬に通じるものがあるのではないでしょうか。

甲子太郎の暗殺、油小路事件

こうした甲子太郎の思想や行動は、佐幕派である新選組からすれば許せぬ裏切り行為でした。
1867(慶応3)年11月18日、周囲が反対する中で、近藤からの「時世を語り合いたい」と申し出に甲子太郎は応じます。胸には朝廷に提出した建白書がありました。

――敵味方に分かれて争う時ではない。近藤さんはきっとわかってくれる――

甲子太郎は近藤を信じていました。酒宴と談論は有意義に終わり、甲子太郎が帰宅する途中、複数の新選組隊士が甲子太郎を襲います。不意の一撃を受けた甲子太郎は、一人を抜き打ちに斬りました。これが、甲子太郎の最初で最後の人斬りでした。奇しくも龍馬暗殺の3日後、龍馬と同様の思想を抱く甲子太郎も命を落としたのです。

暗殺の場所となった京都・油小路沿いにある本光寺

暗殺の場所となった京都・油小路沿いにある本光寺

甲子太郎の遺骸は、そのまま京都の七条油小路に野ざらしにされました。残りの御陵衛士を誘い出す罠です。19日未明に藤堂平助たちは罠と承知で甲子太郎の遺骸を引き取りに出かけ、新選組と斬り合いになりました。そして死闘の末、平助も戦死したのです。

一説によると、近藤たちは平助だけは逃そうとしましたが、事情を知らない隊士の一撃を受けてしまったようです。
新選組の目線でしか語られることのない甲子太郎ですが、別の視点から見ると、もうひとりの坂本龍馬といえる人物像が浮かび上がってきます。もし大局観のある甲子太郎が生きていたら、違った明治維新を迎えていたのかも知れません。

(黒武者 因幡)

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