日本史上にはさまざまな制度や役職が登場します。その中には現代の生活基盤となるものもたくさん存在するので興味深いでしょう。
鎌倉時代におかれた「守護地頭」も、日本史を学ぶ上で重要な制度です。守護地頭は1つにくくられることも多いですが、実際は「守護」「地頭」という2つの制度のことで、それぞれ別の役割をもっていました。
守護地頭とはどのようなものなのか、概要、目的、その後の影響などについて振り返ります。歴史の勉強の参考として役立ててください。
押さえておきたいポイント
・守護は国ごとにおかれ、軍事・警察などの治安維持をした
・地頭は荘園ごとにおかれ、年貢の取り立てをした
守護地頭の概要
元暦2年(1185)源頼朝は武士政権の鎌倉幕府を開きました。そのとき地方諸国に設置した役職が「守護」と「地頭」です。これらの役職に任命されたのは、頼朝と主従関係を結んでいた有力な御家人たちでした。
それぞれどのような役割だったのか、詳しく見ていきましょう。
守護とは?
守護は、各国に1人配置され、その国の御家人の監督、軍事や警察を担当しました。
その職務は、大番催促、謀反人逮捕、殺害人逮捕の3つからなる「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」です。「大番」とは京や鎌倉の警備のことで、各地の御家人の義務でもありました。しかし、なかには嫌がる人もいたようです。
守護はもともと「惣追捕使(そうついぶし)」と呼ばれており、平家追討の一端を担う存在でもありました。
【大犯三箇条】
大番催促……大番役をその国の御家人に任命する権限をもつこと
謀反人逮捕……幕府や朝廷に反抗した人を逮捕すること
殺害人逮捕……殺人犯を逮捕すること
地頭とは?
地頭は、荘園や公領にそれぞれ1人配置され、土地の管理や治安維持、年貢の取り立てなどを行いました。
公領とは朝廷の支配地で、荘園とは貴族や寺社が管理する朝廷から独立した私有地です。地頭がおかれることは、朝廷や貴族にとって自分たちの土地を勝手に管理されるという許しがたい事態だったといえるでしょう。
名義上の荘園所有者である貴族や寺社は「荘園領主」といい、実際に現地で指揮をとっていた地頭らは「在地領主」と呼ばれ区別されました。
もともと地頭は「国地頭」と呼ばれており、荘園の責任者だった武士に改めて支配権を与えたものです。そのため、年貢の取り立ての際は荒っぽいやり方をする人も多かったようです。そこから、このようなことわざもできました。
「泣く子と地頭には勝てぬ」
(聞き分けのない子や横暴な地頭には勝てない。道理の通じない相手には黙って従うほかない)
目的、背景・経緯
頼朝はなぜ守護や地頭を設置したのでしょうか?
また、設置するまでにどのような背景や経緯があったのか、その詳細を振り返ります。
設置の目的
守護地頭が設置された大きな目的は、鎌倉幕府の支配力を広めて全国統治するためです。
奈良時代に発生した私有地は、天平15年(743)の「墾田永年私財法」の制定により荘園となりました。荘園は貴族や寺社が管理している土地なので、幕府としては手が出せません。しかしこのような私有地からも確実に税を取るために地頭が設置されたのです。
またもう1つの目的としては、頼朝と弟・源義経の対立が挙げられます。頼朝は広範囲に守護と地頭を設置することで、逃げ回っている義経を捕獲しようとしたのです。
背景と経緯
源氏が権力を握る以前は、平清盛が台頭して政治の実権を握っていました。清盛は武士として初めて太政大臣という朝廷トップの地位を得て、権力をふりかざしていたのです。その横暴さに、貴族や平家以外の武士たちは不満や反感をもちました。
そのような状況だったため、治承4年(1180)後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)の命令により、頼朝をはじめとする各地の源氏が打倒平氏を掲げて挙兵します。この戦いは「治承・寿永の乱」と呼ばれ、5年も続きました。その中でも頼朝の弟・義経の活躍は目覚ましく、寿永3年(1184)一の谷の戦い、元暦2年(1185)屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏を破っています。
源氏の活躍によりついに平氏が滅亡すると、後白河法皇は源氏のトップだった源頼朝を恐れるようになりました。そのため義経を朝廷側に引き込もうとします。さらに、義経の越権行為や許可なく官位を受けたことなどを問題視した頼朝は、義経の鎌倉入りを拒否しました。こうして兄弟の間に亀裂が生じ始めると、ついに義経は後白河法皇に頼み、頼朝追討の命を下させたのです。しかし義経は討伐に失敗、その後は頼朝からの反撃を恐れて逃亡することになります。彼が身を寄せたのは、幼少期を過ごした奥州平泉(現在の岩手県)の藤原秀衡(ひでひら)のもとでした。
一方、命を狙われて激怒した頼朝は、後白河法皇に義経殺害の命令を出させます。こうして大義名分を得た頼朝は、義経を確保するためという口実で、守護地頭の設置やその任命権も認めさせたのです。しかしこれは、幕府による全国支配への第一歩でした。なお義経については、奥州藤原氏を利用して自害に追いやったといわれています。
何が変わったのか?
その当時の諸国は、朝廷から派遣された国司が統治していました。しかし鎌倉幕府が守護や地頭を設置したあとは、守護と国司の二重支配となり、両者のあいだに対立が生まれます。
室町時代になると、守護は国内の武士を家臣として取り込み、一国を支配する守護大名として成長していきました。室町幕府は足利将軍家の権力が弱かったため、有力な守護大名たちは結束して勢力を強めていきます。そして守護大名は、戦国期には戦国大名へ、江戸時代には藩主へと変化していくのです。戦国時代に活躍した「島津家」「毛利家」「伊達家」などは、鎌倉時代に守護や地頭へ任命されて長く続いた家の代表といえるでしょう。
地頭がおかれた荘園や公領にも朝廷から派遣された荘官や郷司がいましたが、地頭はやがて荘園を侵略し始めます。しかし室町時代には守護の存在が大きくなり、自国の地頭も家臣として取り込んだため、地頭は室町時代中期ごろには消滅していったようです。
鎌倉期には、幕府の支配は朝廷の権力が大きい畿内まではなかなか広がりませんでした。しかし承久3年(1221)承久の乱後は、幕府権力が西国にも広がりました。
まとめ
頼朝は守護地頭を設置することで、家臣の御家人たちを全国に派遣して支配力を強めました。これは幕府の全国支配への始まりとなり、その後も長く続いていく武士政権の基盤になりました。守護地頭は、その後の時代に大きな影響を及ぼしたといえるでしょう。
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