【大政奉還と徳川慶喜】彼の狙いと誤算、王政復古の大号令まで

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【大政奉還と徳川慶喜】彼の狙いと誤算、王政復古の大号令まで

徳川幕府が265年という長い期間、実権を握っていた江戸時代。その時代の幕切れが「大政奉還」と「王政復古の大号令」でした。徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜は、どうして政権を朝廷に返上する大政奉還に踏み切ったのでしょうか?慶喜には、それ相応の覚悟や何らかの狙いがあったに違いありません。

今回は、大政奉還の背景と経緯、慶喜の狙いや王政復古の大号令後の彼の行動について解説します。

大政奉還とは?

二条城
大政奉還は二条城で行われました。

幕末の情勢も煮詰まった慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜はそれまで200年以上徳川家が担っていた政権を天皇に返上する旨を上奏しました。翌15日にこの上奏が認められ、長きにわたり続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになったのです。この一連の出来事が「大政奉還」です。これは、もともと土佐藩を中心とする勢力が建白したものを慶喜が取り上げて朝廷に上奏したものでした。

大政奉還にいたった背景と経緯

大政奉還図

政治的な力をもつ政権が自ら権力を手放すことは、さまざまな国の歴史を見てもあまり例がありません。
当時、慶喜は薩摩藩・長州藩が倒幕に藩の方針を舵取りしていることを察知していました。またその頃の幕府は第二次長州征伐に失敗しており、長州とならぶ雄藩である薩摩藩との戦闘に突入した場合、徳川家が負けてしまうことや国内が内戦状態に落ち入ることを慶喜は懸念していたのです。

慶喜だけでなく、同じように内戦が起きてしまうことを懸念している人物は他にもいました。その筆頭が坂本龍馬です。龍馬は後藤象二郎を通じて土佐藩に大政奉還策を献上し、徳川家に政権を返上させるという無血革命を考えていました。こうして慶喜と龍馬らの考えが一致し、土佐藩から建白された大政奉還案は実現に至ったのです。

徳川慶喜の狙いと誤算とは

徳川慶喜
徳川慶喜。最後の将軍の狙いと誤算とは、どのようなものだったのでしょうか。

慶喜が大政奉還に踏み切ったのは、倒幕派の薩摩藩・長州藩から倒幕という大義名分を奪い去り、同時に徳川家の権力と影響力を残そうという狙いがあったからでした。しかし、その目論みは失敗してしまいます。彼の狙いと誤算について追ってみましょう。

公議政体に参加するつもりだった

当時の有力な世論の一つに公議政体論というものがありました。これは、今までのように幕府のみに政権を任せるのではなく、朝廷と諸侯の会議によって国を動かしていこうという考え方です。幕府の欧米列強に対する弱気な外交姿勢が批判され、このような論調が生まれてきました。

しかし、慶喜はそれを逆手に取ろうと考えます。「大政奉還によって政権を手放しても諸侯会議にさえ参加すれば、国内では依然最大の兵力・勢力を持っている徳川家の主権は揺るがない」慶喜はそんな見込みを持っていました。事実、当時の朝廷には政権を返されても政治・外交を行っていく力はなく、しばらくは旧幕府が政治・外交を行っています。

薩摩藩は武力倒幕を求めていた

当時最大勢力の一つだった薩摩藩は、大政奉還の建白書を出した土佐藩と薩土盟約を結ぶなど、大政奉還と公議政体の樹立に動いていると慶喜は考えていました。しかし、実際の薩摩藩は大久保利通らを中心にあくまでも武力倒幕にこだわります。大久保は岩倉具視らと協力し、幕府を朝敵とするための「討幕の密勅」を出させるべく朝廷に働きかけていました。ついに、密勅が朝廷から薩摩と長州に下されますが、ぎりぎりのところで先に大政奉還が上奏され、幕府と倒幕派の武力衝突は回避されたのでした。

こうして一時、倒幕の進捗は滞りますが、大政奉還のあった慶応3年(1867)の12月には薩摩藩を中心とする勢力が政変を起こし朝廷を制圧、新政府の設立を宣言します。これが「王政復古の大号令」と呼ばれる出来事です。同時に徳川慶喜の領地返還と内大臣職の辞職(辞官納地)が新体制派により決定されました。

王政復古の大号令と慶喜

王政復古の大号令を受けた慶喜は朝敵になることを防ぎ、徳川家を守るためにさまざまな手を打ちます。その行動と結果についてみていきましょう。

大阪城に退去

大阪城
現在の大阪城です。

王政復古の大号令によって徳川家の領地返還、慶喜の辞官が決定した際、慶喜は旧幕府軍の暴発を抑えるために大阪に退去します。しかし、これは経済的・戦略的に有利な大阪を押さえて朝廷や諸藩に圧力をかけ、政局を有利にする目論みがありました。また、大阪において各国の公使に外交や条約の履行は徳川家の責務であることを訴えます。この目論みは半ば成功し、慶喜はしだいにその勢力を取り戻し始めました。

鳥羽・伏見の戦いが起こる

その流れに対抗するべく、薩摩藩の西郷隆盛は江戸で数々の挑発行為を実行します。その結果、慶応3年(1867)12月25日に佐幕派の筆頭である庄内藩が江戸薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が起こったのです。大阪の慶喜のもとにいた旧幕府軍の会津藩、桑名藩もこれに同調して薩摩藩への怒りをあらわにすると、慶喜はそれを制御することが難しくなります。
この出来事をきっかけに、ついに慶喜は薩摩討伐を宣言して京都に侵攻し、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発します。慶喜は天皇への書状に薩摩藩主を奸臣と称するなど非難しますが、結局は旧幕府軍が朝敵になってしまい、慶喜はあわてて船で江戸に逃げ帰ることとなります。結果、大将である慶喜不在の旧幕府軍は、この戦に大敗してしまいました。

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大誤算だった最後の将軍

大政奉還から王政復古の大号令までの流れは、慶喜の狙いから外れた誤算が多くありました。その誤算の結果、戊辰戦争に突入し、旧幕府勢力は朝敵として最終的には敗北してしまいます。大政奉還や江戸無血開城の英断を下したと評価される一方で、慶喜の世間的な評価が今でも分かれているのはこうした理由があるのです。

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