【後漢最後の皇帝:献帝】傀儡人生の末に禅譲した悲しき命運

世界史
漢王朝最後の皇帝・献帝(「三国志 Secret of Three Kingdoms」より ©Chinese Entertainment Tianjin Ltd.)

中国史のなかで最も長く続いたのが前漢・後漢あわせて約400年の歴史を誇る漢王朝です。この漢という国の最後の皇帝は、献帝とよばれる人物でした。長い歴史に幕をおろすことは大きな決断ですが、献帝は自ら望んでそうしたわけではなかったようです。その裏には、皇帝でありながら傀儡人生を歩んでいたという事情が隠されていました。
今回は、献帝について知りたい人に向けて、うまれから皇帝になるまで、傀儡化していった経緯、その最期と彼が残した影響などについてご紹介します。

うまれから皇帝になるまで

献帝はどのように皇帝の座についたのでしょうか。皇帝になるまでの経緯を振り返ります。

霊帝の次男・劉協として誕生

漢王朝第14代皇帝である献帝は、12代皇帝・霊帝の次男として誕生しました。名前は劉協といい、のちに孝献皇帝、孝愍皇帝という諡号(死後に送られる名前)を得ています。
母・王栄は霊帝の寵愛を受けていましたが、劉協を産んだのち、何皇后の嫉妬により毒殺されました。そのため献帝は暴室(宮女の独房)で養育され、その後は霊帝の生母・董太后によって引き取られます。
中平5年(189)霊帝が死去すると異母弟・劉弁が即位し、献帝は勃海王に封じられ、同年秋には陳留王に移封されました。

董卓により皇帝に擁立される

献帝を擁立した武将・董卓の像です。

この当時の朝廷は、外戚にあたる何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していました。そのような中、何進が十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ朝廷は混乱に陥ります。しかし宦官勢力は数日ほどで敗れ、献帝は洛陽から連れ去られたものの間もなく帰還。その後の朝廷は、混乱に乗じて都に入った董卓によって実権をにぎられました。そして献帝は、この董卓によって皇帝に擁立されたのです。

王朝の混乱と皇帝の傀儡化

不遇な幼少期を経た献帝は、董卓によって皇帝の地位につきました。しかし、その後の彼の人生にはさらなる困難が待ち受けていたのです。

董卓の暗殺と政治実権の遷移

初平元年(190)袁紹ら各地の刺史や太守は、董卓の横暴なふるまいに反発して挙兵しました。これにより朝廷は遷都を決め、献帝は長安へと移動します。その後、董卓が腹心の呂布に暗殺されたため王允が政治を仕切るようになりますが、董卓の残党による攻撃で長安は約1ヶ月で陥落。さらには政治の実権を李傕や郭汜に奪われてしまいます。また各地では反董卓の兵を挙げた諸侯らが割拠したため、王朝は内乱状態に陥りました。

洛陽に帰還し曹操の庇護下に

献帝は皇帝でありながら曹操によって実権を握られていた(「三国志 Secret of Three Kingdoms」より ©Chinese Entertainment Tianjin Ltd.)

建安元年(196)7月、献帝は洛陽に帰還し、翌月には曹操の庇護のもと許に遷都しました。これを発端に、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかける立場になります。
表向きは庇護者としてふるまう曹操でしたが、裏では献帝の周囲から馴染みの者を排除し、自分の息のかかった人間を送り込んでいました。その状況を憂いた献帝は「自分を大事に思うなら補佐し、そうでないなら退位させよ」と、忠誠か譲位の二者択一を迫ったといいます。これに冷や汗をかいた曹操は、宮中への参内を控えるようになりました。

王権が安定するも曹操に実権を握られる

それまで混乱が続いていた朝廷ですが、曹操の庇護を受けてからはようやく献帝の王権が安定しました。しかし実権は曹操に掌握され、曹操の身分も丞相・魏公・魏王と徐々に上がったため、漢王朝はすでに曹操王朝ともいうべき状況になっていたのです。さらに建安19年(214)には皇后伏氏が殺され、献帝は曹操の娘・曹節を皇后に迎えざるを得なくなりました。

後漢の滅亡と献帝の最期

曹操に実権を握られた献帝は、やがて漢王朝の歴史に幕をおろします。その後の献帝はどうなったのでしょうか。

魏王・曹丕に皇帝を禅譲する

曹丕(魏文帝)
閻立本によって描かれた曹丕(魏文帝)です。

建安25年(220)曹操が死去し、子の曹丕が魏王を継承します。すると、曹丕とその一派による圧力で、献帝は皇帝の座を譲ることを余儀なくされました。献帝は禅譲(位を世襲せず、有徳者に譲ること)の形式で地位を譲り、ついに漢王朝が滅亡。皇后の曹節は夫である献帝を想い、玉璽(ぎょくじ/代々受け継がれる皇帝用の印章)を手放しませんでしたが、拒み続ければ兄は容赦しないだろうと言い、嘆き悲しみながら玉璽を投げつけたといいます。

山陽公として最期を迎える

皇帝の身分を失った献帝は、曹丕から山陽公に封じられました。彼はさまざまな面で厚遇されましたが、劉氏の皇子らは王から列侯に降格されるなどの処分をうけています。その後、献帝は曹節とともに暮らし、青龍2年(234)3月に、54歳で亡くなりました。

献帝の残した2つの影響

献帝の肖像です。

長い傀儡人生を歩んだ献帝ですが、彼が残した影響が2つあります。それは、その後の歴史に大きく関わるものでした。

劉備に大義を与えた

献帝が皇帝の座から降りたあと、益州にいた劉備のもとに一つの知らせが届きました。それは「献帝が曹丕に殺された」という誤報で、これを信じた劉備は「自分が漢王朝の命脈を継ぎ、魏を倒して皇帝の仇を討つ」と決意します。そして自ら皇帝を名乗り、蜀漢を建国したのです。献帝は劉備に大きな意義を与えたといえるでしょう。

禅譲はその後も繰り返されるように

献帝が行った禅譲は、それ以降、王朝が入れ替わるたびに繰り返されました。曹丕は献帝に禅譲を迫りましたが、二度辞退したあとに受け入れたといわれています。これは帝位を奪ったと思われないようにするための戦略で、最終的には献帝が重ねて禅譲を申し入れる事態になったのです。献帝の禅譲は、のちの中国史に多大な影響を与えました。

漢王朝が終焉し、三国時代へ

朝廷の混乱の中で擁立された献帝は、さまざまな武将に実権を握られ、お飾りの存在にされてしまいました。不遇な青年期を過ごした彼にとって、晩年の静かな暮らしこそ最も幸せな時間だったかもしれません。日本史にも傀儡化された人物がたくさんいますが、献帝ほど大きなドラマをもった人は少ないでしょう。
献帝の禅譲により後漢は滅亡し、その後は正式に魏が成立します。そして、やがて大陸は魏・呉・蜀に三分され、三国時代へと突入していくのです。


「三国志 Secret of Three Kingdoms」
放送日時:2020年3月10日(火)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート:2020年3月11日(水)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/detail/secretofthreekingdoms/
出演:マー・ティエンユー(劉平)、エルビス・ハン(司馬懿)、レジーナ・ワン(伏寿)、ドン・ジェ(唐瑛) ほか
制作:2017年/全54話/字幕/原題:三国機密之潜龍在淵


 

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