【甲斐の虎:武田信玄】織田信長も恐れた戦国武将の人生と強さの秘密

未分類
【甲斐の虎:武田信玄】織田信長も恐れた戦国武将の人生と強さの秘密

最強の戦国武将といえば誰を思い浮かべるでしょうか?

日本史の戦国時代には圧倒的な強さを誇る武将が複数いましたが、織田信長を最後まで苦しめた人物といえば武田信玄(武田晴信)でしょう。武田軍の強さは戦国一ともいわれ、その戦歴を見るとほとんど勝利しています。「甲斐の虎」と呼ばれた信玄は、どのような人物だったのでしょうか?

今回は武田信玄のうまれから家督継承までの経緯、勢力拡大における活躍、西上作戦とその最期、また武田軍の強さがわかるエピソードなどをご紹介します。

うまれから家督継承まで

信玄はどのような環境でうまれたのでしょうか?その誕生から武田氏当主になるまでの経緯を振り返ります。

甲斐国守護の嫡男となるが…

信玄は、大永元年(1521)甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として誕生しました。この数年前、父・信虎は甲斐を統一し、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠として武田城下町を整備。家臣団も整備し、戦国大名としての地位を確立します。大永3年(1523)兄の竹松が若くして世を去り信玄が嫡男となりますが、2年後に父と大井夫人の間に弟・武田信繁が誕生。父は弟を寵愛するようになり、信玄のことを疎むようになりました。

父親を追放し武田家第19代目当主へ

天文5年(1536)信玄は元服して名を「晴信」と改めます。『甲陽軍鑑』によれば、天文5年(1536)佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めで初陣を飾り、一夜にして落城させたといいます。この伝承は疑問視されていますが、初陣の時期はこの頃のようです。信玄は信虎の信濃侵攻にも従軍しますが、甲府へ帰陣したのち、重臣らとともに信虎を駿河に追放。その後、武田家第19代目の家督を相続しました。

勢力拡大していく武田氏

父が統一した甲斐を手に入れた信玄は、さらに勢力を拡大していきます。それは信濃侵攻から始まりました。

信濃侵攻を本格化させる

信玄は父の路線から変更して、今まで同盟を結んでいた信濃諏訪領に侵攻します。天文19年(1550)には小笠原領にも侵攻し、中信地方は武田氏の支配下となりました。信玄はそのままの勢いで村上義清の支城・砥石城を攻撃しますが、この戦いでは「砥石崩れ」といわれる大敗を喫します。しかし翌年、家臣・真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城し、義清が逃亡。こうして信玄は東信地方も手に入れ、北信地方以外の信濃をほぼ平定したのです。

川中島の戦いで上杉謙信と5度対決!

川中島の戦いを描いた『信州川中嶋合戦之圖』です。

天文22年(1553)越後の上杉謙信が、義清や北信豪族から助けを求められ信濃に出兵します。これ以降、信玄は信濃の支配権をめぐって5度にわたり謙信と戦うことになります。とくに永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは大規模なものとなり、武田軍も信玄の実弟・信繁や重臣・諸角虎定、山本勘助らを失うなど大きな痛手を負いました。この戦いの後も上杉軍と対峙しましたが、衝突することなく終了。信玄の信濃侵攻は一段落を迎えます。

今川氏・北条氏との合戦

永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗北しました。今川領国内では三河の徳川家康が独立し、信玄は家康とともに駿河に侵攻します。その際、相模の北条氏康にも協調を持ちかけますが、氏康は今川方を救援し、上杉氏と同盟を結んで信玄に圧力をかけました。そこで信玄は、将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦し、反北条勢力と結んで北条氏を攻撃します。こうして信玄は、近隣諸国との対戦と同盟回復を繰り返しました。

中断された西上作戦と信玄の遺言

今川氏や北条氏と戦い続けてきた信玄は、上洛を見据えた西上作戦に乗り出します。しかし、この作戦の途中で、この世を去ることになるのです。

徳川家康を討つべく遠江・三河侵攻を行うが…

元亀2年(1571)信玄は影響力を増した信長の存在を危惧し、その盟友・家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を行いました。約3か月で5つの城を落としたものの、その途中で信玄が吐血したため甲斐に帰還します。

同年、氏康が死去し、嫡男・北条氏政により同盟が回復。徳川氏とは三河・遠江をめぐって対立していましたが、織田氏とは縁戚関係を結び友好を保っていました。この時点で武田氏は約120万石を領していたといいます。

将軍・足利義昭の信長包囲網に応じる

三方ヶ原の戦いの3枚揃錦絵『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』です。

元亀3年(1572)信玄は将軍・義昭の信長討伐令に応じ遠江に侵攻しました。信玄本隊と別動隊はそれぞれ徳川方の諸城を落とし合流。遠江の要衝である二俣城も陥落させます。家康は遠江一言坂で武田軍と戦うも敗走し、武田軍の次の狙いを居城・浜松城だとみて籠城戦を覚悟しました。ところが、武田軍はわざと浜松城を通り過ぎる作戦を決行し、この挑発に乗った家康は家臣の助言を聞かずに出陣。両軍は三方ヶ原で激突し、信玄はこの戦いに圧勝します。

秘匿された信玄の死

快進撃を続ける武田軍でしたが、信玄の病状が悪化し侵攻がとまります。信玄は長篠城で療養後、甲斐に帰国する途中で死去しました。『甲陽軍鑑』によると、信玄は遺言で「自身の死を3年間隠すように」と言い残したといいます。家督を相続した勝頼はこれを守り、信玄の葬儀を行わず死を秘匿しました。しかし武田軍の動きに異変を感じ取ったのか、謙信は2週間程度でその死を知り、信長や家康も1か月ほどで察知したようです。

信玄の強さの秘密がわかる3つのエピソード

戦国最強と呼ばれた武田軍ですが、なぜそこまでの強さを誇っていたのでしょうか?その強さの秘密がわかる逸話を3つご紹介します。

水洗トイレで作戦を練っていた!?

信玄は躑躅ヶ崎館に六畳もの広さの自分専用の水洗トイレを設置していました。このトイレは、信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと上流に控えている家臣が水を流すという仕組みでした。この空間には机や硯(すずり)も設置されており、信玄は用を足しながら書状を書いたり作戦を考えたりしていたといわれています。時と場所を選ばずに常に作戦を練っていたことがうかがえる、彼らしいエピソードです。

隠密組織「三ツ者」で情報収集

情報収集を重要視した信玄は、隠密組織を用いて諜報活動を行っていました。身寄りの無い少女を集めて、表向きは「歩き巫女」として全国で諜報活動を行わせていたといいます。このような活動により信玄は甲斐にいながら全国の情報を知っていたといわれ、「足長坊主」と称されたそうです。

『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典に

『甲陽軍鑑』の一部。日本住血吸虫症(地方病)について書かれています。

武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した軍学書『甲陽軍鑑』は、武田氏滅亡後も参考とされました。のちに甲州を治めるようになった家康は武田遺臣を用い、家臣・井伊直政が武田の武将・山県昌景の遺志?を継いで赤備えを継承。井伊氏は幕末に至るまで赤備えを基本とした軍装を貫いたそうです。

多大な影響力をもつ戦国武将

甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。
信玄には人生訓などの名言も多く、現代人でも共感できるものが多数残されています。この機会に信玄の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか?

 

<関連記事>
【越後の龍VS甲斐の虎】戦国史上最大の激戦!第四次川中島の戦い
【本当は美談じゃなかった!?】「敵に塩を送る」のウラ話
【越後の龍:上杉謙信】軍神と呼ばれた戦国武将の生き様に迫る

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【蒲生氏郷:会津の礎を築いた男】その功績と藩にもたらしたもの

コメント

タイトルとURLをコピーしました