男女の想いは年齢や身分が離れていても燃えるもの。現在も熟年カップルの話題が盛んですが、シニア世代になってから「男らしさ」を武器に朝廷で大出世したお坊さんがいます。その名は道鏡、「日本三大悪人」のひとりとも言われる道鏡の半生に迫ります。
道鏡、遅咲きの朝廷デビュー
道鏡(生年不詳)は、物部氏の支族・弓削氏の出と言われています。俗名は弓削連と言い、出身は河内国(大阪府)でした。
やがて道鏡は法相宗の高僧・義淵の弟子となります。そこで修行した彼は、禅や占星術、気功に通じるようになりました。そして宮中の仏殿に入ることも許されたのです。
東大寺の大仏を建立した聖武天皇の後を継いだのは、その娘の孝謙天皇でした。
若き女帝は、自身の母・皇太后の甥でもある藤原仲麻呂(恵美押勝)の協力の元に政治を行います。やがて女帝は、病気の母の看病を理由に譲位し、上皇となりました。(後に「ワケ」あって称徳天皇としてもう一度天皇になります。そのワケは後ほど・・・)
皇太后が亡くなると、気落ちした孝謙上皇は病に伏してしまいます。その時に加持祈祷を行い、献身的に彼女に尽くした僧がいました。それが道鏡でした。
甲斐甲斐しく世話をしてくれた道鏡に、上皇の心は惹かれていきました。俗説ではあるものの、この時2人の関係はただならぬものになったようです。
当時の女帝は独身でなければならなかったのですが、もはや上皇は道鏡に夢中でした。
道鏡のみならず、彼の弟や一族まで取り立て、道鏡は朝廷において大きな影響力を持つようになったのです。
後世に語り継がれる道鏡の下半身事情
さて、下世話な話ですが、なぜそこまで上皇は道鏡に夢中になってしまったのでしょう。
江戸時代の川柳に、ずばり表現されています。
「道鏡は 座ると膝が 三つでき」
道鏡、お持ちのモノがとても立派だったということなのです。この川柳以外にも道鏡の下半身にまつわるエピソードは多々残っています。
男性との出会いも禁じられた独身の上皇は、道鏡の「男らしさ」に夢中になってしまったのかも知れません。道鏡とは「朝を視ざること百余日」も楽しんだそうですよ。いや、俗説ですけれど。もちろん、一生懸命に看病してくれた道鏡の優しさが第一のはずですが・・・。
この類の話、実は中国・秦の始皇帝の頃にもあります。始皇帝の実母・趙姫を籠絡した嫪毐(ろうあい)もまた立派なモノを持っていたと伝わっているんですよ。いつの世も・・・嗚呼。
下半身で破格の出世!天皇就任も射程に
道鏡しか見えなくなった孝謙上皇に危機感を覚えたのが、淳仁天皇と藤原仲麻呂です。仲麻呂は反乱(恵美押勝の乱)を起こしますが結局破れ、天皇も配流となりました。そして上皇は再び即位し、今度は称徳天皇となったのです。
そして天皇が行ったのは、道鏡を太政大臣禅師とすることでした。これは文字通り、政治のトップである太政大臣と同等の地位です。しかも、すぐに法王の位を与えたのです。これはなんと天皇に準ずる待遇でした。一介の僧が寵愛(下半身由来)でここまで上り詰めるとは、なんという事態でしょう。
そこで起こったのが、「道鏡が皇位につくべし」という託宣が下された宇佐八幡宮神託事件でした。結局、道鏡が天皇になることはありませんでしたが、皇位をうかがう程の勢いがあったのです。
愛する称徳天皇が亡くなり都から追い出される道鏡
しかし道鏡の全盛時代もやがて終わります。770年に称徳天皇が崩御すると、遺宣によって白壁王が皇太子となり、光仁天皇として即位しました。もう誰も道鏡(とその下半身)を必要とはしていませんでした。彼は下野国(栃木県)の薬師寺別当を命じられ、そこで亡くなったのです。
あくまで2人の関係は俗説に基づくものですが、道鏡の重用ぶりから孝謙上皇(称徳天皇)にとって心の拠り所だったことは疑いないでしょう。傍で話をよく聞いてくれる男に、女は弱いんですよ・・・。
(xiao)
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