【真田昌幸:戦国時代一の謀将】天下人も恐怖した男の一生と逸話

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【真田昌幸:戦国時代一の謀将】天下人も恐怖した男の一生と逸話

戦国時代の武将・真田昌幸は、徳川家康の軍を二度も打ち破ったことで有名です。大坂の陣で家康本陣にまで迫ったといわれる真田信繁(幸村)の父親としても知られており、大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄さんが演じたことでも話題になりました。
後世ではその知略から戦国一の謀将とも呼ばれている昌幸。彼はどのような一生を送ったのでしょうか?
今回は、昌幸のうまれから武田家臣時代までの流れ、その後の活躍、関ヶ原の戦いでの働き、残された逸話などについてご紹介します。

うまれから武田家の家臣時代まで

昌幸は武田家の家臣として活躍していたことでも知られています。武田家臣としての前半生を振り返ります。

7歳で人質になり足軽大将に抜擢される

武田神社所蔵の『武田二十四将図』です。

昌幸は天文16年(1547)真田幸隆(幸綱)の三男として誕生しました。同母兄がいたため家督相続権が無かった昌幸は、7歳で甲斐武田家の人質になり武田信玄の奥近習衆(側近中の側近)に加わります。また信玄の母系の支族・武藤家の養子になり、足軽大将にも任命されました。永禄9年(1566)に開かれた茶会では信玄の配膳役を務め、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には信玄の使者として勝頼のもとに出向。この頃の昌幸は重臣に近い地位にあったと考えられており、父と兄と並んで武田二十四将にも数えられました。

復姓して真田家の家督を相続する

信玄死後、昌幸は勝頼に仕えます。また、天正2年(1574)に父・幸隆が死去し、翌年の長篠の戦いで長兄・信綱と次兄・昌輝が亡くなったため復姓して真田家の家督を継承。その後は本領と甲斐の往復を繰り返しました。
天正6年(1578年)越後の上杉景勝との間に甲越同盟が成立し、昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領である沼田領に侵攻します。昌幸は調略をつくして入手した名胡桃城と小川城を拠点に沼田城を攻撃しますが、北条側に援軍がきたため撤退。のちに攻撃を再開し、敵将を投降させ沼田城を落としました。

知略と武勇でのし上がった昌幸

信玄と勝頼のもとで頭角を現した昌幸ですが、やがて武田氏が滅亡します。その後の昌幸はどのように生きたのでしょうか?

臣従しては裏切り…次々と主君を替えた

歌川芳幾による『太平記英勇伝:三十五、滝川左近一益』です。

天正10年(1582)織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐により武田氏が滅亡。昌幸は織田家重臣・滝川一益の与力となりましたが、わずか3ヶ月後に本能寺の変が起こります。これにより旧武田領を任されていた織田家臣らが逃走し、家康、上杉景勝、北条氏直らによる領地争奪の天正壬午の乱が勃発しました。昌幸はこれを機に、信濃に潜伏していた旧武田家臣と主従関係を結んで沼田城を奪回。その後は景勝、次いで氏直に臣従し、のちに北条氏を裏切って家康に仕えました。昌幸は領土を守るために、次々と主を替えていったのです。

第一次上田合戦で徳川軍を撃退!

天正11年(1583)昌幸は家康の命により上田城と城下町を築きます。その翌年の小牧・長久手の戦いでは、家康の隙をついて沼田・吾妻・小県を掌握。こうして領土を広げた昌幸でしたが、家康から沼田領を引き渡すよう命じられたため徳川氏との手切れを決断しました。昌幸は家康の侵攻に備え、次男・信繁を人質に上杉氏に従属。家康は約7000人の兵力で上田城を攻撃しますが、昌幸はわずか2000人の兵力で大勝します。この上田合戦により、真田氏は信濃の独立勢力として認知されるようになりました。

豊臣秀吉の家臣になり活躍する

天正13年(1585)信繁が上杉家から豊臣家の人質として大坂に出仕したため、昌幸は秀吉に臣従し、その命で家康の与力となりました。その後は小田原征伐などで活躍し、沼田領が嫡子・信幸に与えられます。これにより、信幸は家康配下の大名として昌幸から独立しました。
また、文禄元年(1592)の文禄の役では、名護屋城に在陣したのち大坂に帰還。渡海はしませんでしたが、その代償として伏見城の普請役建築や土木工事を負担し、その働きから正式に従五位下安房守に任官されました。

関ヶ原の戦いとその後

豊臣家臣として地位を築いた昌幸ですが、やがて秀吉もこの世を後にします。そして、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するのです。

真田家存続のための「犬伏の別れ」

秀吉の死後、五大老筆頭である家康が台頭し、強い影響力を持つようになりました。家康は出仕を拒否する上杉氏の討伐に向かいますが、家康と対立していた五奉行・石田三成がその間に挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送ります。下野国犬伏でこれを受け取った昌幸は、家康の東軍につくか三成の西軍につくかを息子と話し合いました。昌幸は三成と姻戚関係にあったため信繁とともに西軍に、信幸は徳川側の本多忠勝の娘・小松姫が正室であることから東軍に与することになり、ここで父子は決別します。これはどちらが負けても家名存続するための策でした。

第二次上田合戦で徳川秀忠を惨敗させる

上田合戦の舞台となった上田城。現在は城址公園となっています。

関ヶ原の戦いが勃発すると、家康の三男・徳川秀忠が約38000人の兵力で上田城に攻め寄せました。秀忠から帰順を勧告された昌幸は、応じるように見せかけて抗戦。昌幸はわずか2000人の兵力で籠城し、出撃と奇策を駆使して秀忠軍を翻弄しました。惨敗した秀忠は家康からの上洛命令に従って上田攻略を諦めましたが、利根川の増水により関ヶ原の戦いに遅参するという失態をおかします。昌幸は三成の敗戦を知ってもなお戦い続けましたが、やがて徳川からの降伏要請に応じました。

西軍敗北により蟄居する

戦後処理では、昌幸と信繁に上田領没収と死罪が言い渡されました。昌幸は死を覚悟で籠城しようとしますが、信之(父との決別を表すため名を信幸から改名)とその舅(しゅうと)・忠勝の助命嘆願により高野山に蟄居(謹慎)となります。昌幸はのちに九度山に配所されましたが、家臣の屋敷も造られるなどかなり厚遇されていたようです。このような流人生活は10年ほど続きましたが、慶長16年(1611)6月4日、昌幸は病により九度山で亡くなりました。

残された逸話

昌幸は最後まで家康を討てなかったことを無念に思っていたようです。そんな昌幸にまつわる逸話をご紹介します。

「表裏比興の者」と評された

昌幸は秀吉から「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」といわれ恐れられていました。表裏比興とは「経験豊富な悪賢い食わせ者」といった意味で、武将にとっては誉め言葉だったようです。家康もまた「稀代の横着者」と評価し昌幸を恐れましたが、かつての主君・信玄は「わが眼の如し」と言って深い信頼をおいていました。

徳川家康がもっとも恐れた男だった!?

大坂の陣で真田氏が大坂城に入ったと聞いた家康は、昌幸と信繁のどちらなのか尋ねたといわれています。昌幸はすでに病死していましたが、家康をはじめとする当時の武将はその死を疑っていたようです。このとき家康は手を震わせて恐怖し、信繁の名をきいて安堵したということです。

講談でも人気の戦国武将

真田家は小勢力でしたが、昌幸の活躍により天下人の家臣に成り上がり、最後は家康を脅かす存在になりました。つぎつぎと主君を替えながら常に野心を捨てなかったからこそ、歴史にその名を刻むことになったのでしょう。昌幸の活躍は多くの講談や軍記物で描かれ、広く知られるようになりました。そんな彼は、現在でも人気の戦国武将として高い知名度を誇っています。

 

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