【 齢71にして籠城戦!?】秀吉も認めた戦国最強の女丈夫「妙印尼 輝子(みょういんにてるこ)」知ってる?

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どこかで読んだことがあるのですが、戦国時代の日本人は、今の私たちからは想像でできないほど気質も全く異なるうえに、潜在的能力も優れていたという説があるそうです。
先日もFacebookで農婦が、米俵(約60キロ!)を何個も背負っている写真を発見して驚愕しましたが、そもそもそれだけ現代人が退化しているのかも・・・と複雑な気分にもなりました。

そんなことを思いつつ、家名の存続に死の直前まで奮闘した一人の女丈夫(じょじょうふ=女傑)がいるというニュースをキャッチしました。
その名は「妙印尼輝子」。
今日は「戦国最強の女丈夫」として世に名を馳せた彼女の人生に迫ってみたいと思います。

戦国のスーパーウーマン

 

妙印尼輝子は、群馬県太田市のほぼ中心分にある金山城を居城とする、北関東の有力武将 由良成繁の奥方。
戦国大名がしのぎを削って覇を競う時代の波に、彼らも否応なしに巻き込まれていきます。

戦国時代十数回に渡る攻撃を耐え抜いた堅牢な金山城。
戦国時代十数回に渡る攻撃を耐え抜いた堅牢な金山城。

当時の関東地方は、巨大な小田原城(神奈川県)を拠点に圧倒的な勢力を誇っていた後北条氏。
由良家も例にもれずその圧力を受けるわけですが、古くは鎌倉時代の智将 新田義貞の直臣である誇り高き家柄から、輝子は必死に奮闘。

「新田一つ引」として有名な大中黒のかもん。新田義貞の時代から用いられていたという。
「新田一つ引」として有名な大中黒のかもん。新田義貞の時代から用いられていたという。

しかしある日茶会を口実に息子の国繁、顕長兄弟を捕らえられ、領地からの退去を命じられてしまった輝子は、領主不在という圧倒的不利の中、自ら陣頭を指揮して籠城、攻め入る北条軍を撃破し和解にまでこぎつけたと、由良家伝記に残っているそうです。
そこまでは戦国時代ならあるかもしれないのですが、凄いのはこの時輝子はなんと71歳という年齢だったこと。

さらに凄いことにこの6年後77歳の時に秀吉の小田原征伐にも参加。息子が後北条氏の命により小田原城に籠城するなか、自らは嫡孫貞繁(当時十歳)の後見として出陣、西上野松井田城主大山寺政繁を攻める前田利家、上杉景勝の北国軍に加勢します。

平均年令は諸説あれど、この時代に77歳で軍隊率いて戦うだけの気力や体力をもっていたなんて、まさに「戦国のスーパーウーマン」。凄すぎて怖すぎる(笑)

ご存知大御所秀吉。輝子の気概に何かを感じ取ったのか。
ご存知大御所秀吉。輝子の命がけの気迫をに何かを感じ取ったのか。

息子を敵に回しても自分は豊臣側へつくという苦渋の決断をした輝子でしたが、この働きにより秀吉から礼状をもらい、国繁は常陸牛久(現茨城県牛久市)五千石への国替だけで罪を許されたというのです。
小田原城征伐後、秀吉の天下が盤石となったのち、彼女が国替先の牛久でその生涯を終え、自ら開基した得徳院に供養されました。
時代の波に翻弄されながらも必死に家を守ることに成功したのですね。

彼女の生涯を綴った小説が再販開始!大河ドラマ化をめざせ!

 

そんななか、この輝子の生涯を、群馬県太田市の史家 浜野春保氏が著した小説「妙印尼輝子」が、地域おこしを行う一般社団法人 地方創生支援機構より再販されました。

また地元の有志により結成された「妙印尼輝子研究会」が、史料が少なく謎の多い輝子について歴史研究を実施。
彼女の名前を全国に広めるために、この小説のPRをはじめ今後開催されるイベント情報などをSNSを通じて発信しています。

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戦乱の世、家名存続のためにその身を粉にして働いたスーパーウーマンの生涯を追ってみるのも興味深いですね。
特に再来年の大河ドラマも、戦国の女丈夫 井伊直虎をモデルにした「おんな城主 直虎」に決定したようですし、これからさらに「戦国女性武将ブーム」が到来するかもしれません。
77歳の女武者は誰がやれるだろうかというのも面白いw

興味を持った方、ぜひ下記サイトをチェックしてみてください。

参照元

妙印尼輝子」オフィシャルサイト
Facebookページ
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小説「妙印尼輝子」通販ページ

副編集長Y

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