武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、平家一門の栄華を築いた平清盛。平家の隆盛のあと、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれましたが、それに先駆けて武士による支配を盤石にしたのが清盛でした。
今回は、清盛が武士の第一人者になるまで、栄華を極めていった平家一門、平家打倒の流れと清盛の最期、清盛が残した功績などについてご紹介します。
武士の第一人者になるまで
清盛の生い立ちを考えると、上に立つべくして生まれた人物ともいえそうです。彼はどのように武士の第一人者になったのでしょうか?
伊勢平家の棟梁の家系にうまれる
清盛は、永久6年(1118)伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として誕生しました。生母については諸説あり詳しいことは不明ですが、白河法皇に仕えた女官(使用人)で、忠盛の妻となった女性の可能性が高いといわれています。また、祇園女御の庇護下で育ったことから、一説には白河法皇が実父だという落胤(らくいん)説も存在しています。
昇進し、平家一門の棟梁に
大治4年(1129)若くして従五位下・左兵衛佐に叙任され、保延3年(1137)には父・忠盛の熊野本宮造営の功により肥後守に就任。この間に廷臣・高階基章(たかしなのもとあき)の娘と結婚し重盛、基盛が生まれますが、妻とは死別したと考えられています。継室は、信西らと院庁の実務を担当していた平時信の娘・平時子で、2人の間には宗盛が誕生しました。
正室から生まれた異母弟・平家盛が徐々に頭角を現し一時は地位が危ぶまれたものの、家盛の急死により嫡流としての地位が磐石になります。安芸守に就任した清盛は瀬戸内海の貿易で大きな利益をあげ、父とともに西国に勢力を拡大し、忠盛の死後に平家一門の棟梁になりました。また、この頃から宮島の厳島神社を信仰しています。
「保元の乱」と「平治の乱」
保元元年(1156)崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承争いにより保元の乱が勃発します。清盛は源義朝とともに後白河天皇側について勝利し、播磨守、大宰大弐に就任。武士をも巻き込んだこの戦いは、その後の清盛と義朝の権力を拡大させていきました。そして平治元年(1159)平治の乱が起こると、清盛は政権を握った反信西派を一掃し義朝を打ち破ります。こうして多くの有力武士が滅亡すると、清盛は武士の第一人者としての立場を手に入れ、朝廷の軍事力を掌握して政治的地位を高めていきました。
全盛期を迎えた平家
政治的地位を手に入れ武家政権の礎を築いた清盛は、うまく立ち回ってさらに地位を高めていきます。そして平家は全盛期を迎えたのです。
二条天皇・後白河上皇の双方に仕える
清盛は、継室の時子が後白河天皇の第1皇子・二条天皇の乳母だったことから、天皇の乳父として後見役になりました。一方で後白河上皇の院庁の別当(長官)にもなり、天皇と上皇の両方に仕えて磐石な立場を築いていきます。そんな中、後白河上皇と建春門院(=平滋子、平時忠・時子の妹)のあいだに憲仁親王(のちの高倉天皇)が誕生し、平時忠らが皇太子にすることを画策。清盛はこの動きに激怒した二条天皇を支持し、天皇崩御後は大納言に昇進して摂政・近衛基実を補佐しました。その後も次々と昇進し、武士としては初めての太政大臣に就任します。しかし、これは実権のない名誉職だったため3か月で辞任。清盛は表向き政界から引退し、嫡子・重盛が後継者となりました。
平家一門が隆盛を極める
その後、病に倒れた清盛は出家しますが、病状回復後に福原に雪見御所を造営し、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に尽力します。このころ皇位は、二条天皇のあとに即位した六条天皇から高倉天皇に譲位されており、出家して法皇となった後白河法皇との関係も良好に保たれていました。こうした清盛のうまい立ち回りにより、平家一門は全国に500ほどの荘園をもち、日宋貿易による莫大な財産を手にするなど隆盛を極めたのです。
平家打倒と清盛の最期
絶大な権力を手に入れた清盛ですが、平家打倒の動きによりその栄華が陰り始めます。清盛の最期はどのようなものだったのでしょうか?
「鹿ケ谷の陰謀」と「治承三年の政変」
後白河法皇ら院政勢力は平家勢力に不満を抱くようになり、パイプ役だった建春門院の死により対立しました。治承元年(1177)6月、平家打倒をもくろんだとされる鹿ケ谷の陰謀が起こり、憤慨した清盛は上洛して治承三年の政変を起こします。清盛は反平家の公卿や院近臣を排除し、親平家の公家を新たに任官すると、後白河法皇も鳥羽殿に幽閉しました。これにより後白河院政は止まり、治承4年(1180)高倉天皇の譲位により安徳天皇(母は清盛の娘・平徳子)が皇位を継承。高倉上皇の院政が始まったものの実際は平家の傀儡(かいらい)政権に過ぎず、平家への反発はさらに高まりました。
治承・寿永の乱、勃発!
平家の独裁に対し、まず反旗を翻したのは後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)でした。反平家の動きは寺社勢力にも伝搬したため、清盛は形勢不利な京都を放棄し福原への遷都を強行します。しかし、伊豆に流されていた源頼朝や信濃国の木曾義仲も挙兵し、九州や公家衆でも反乱が勃発。平家一門からも遷都反対の声が高まり、わずか半年で清盛は平安京に還都しました。その後、清盛は近江を平定し、畿内最大の反平家勢力・興福寺を排除するため、興福寺・東大寺など南都の寺々を焼き払います。これにより清盛は「仏敵」の汚名を着ることになりました。
源頼朝を恨みながら…
その後、平家の勢力基盤だった西国でも豪族が挙兵し、形勢は不利になっていきました。清盛は京都を中心に新体制を築こうとしましたが、志半ばで謎の熱病に倒れ死去。『平家物語』では、「葬儀は無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言い残したといいます。清盛の死後、頼朝が密かに和睦を申し入れた際、後を任された宗盛は「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前にさらすべし」が清盛の遺言だとして拒否したそうです。
清盛が残した功績とは?
平家一門を成功に導き、歴史に名を残した清盛。その大きな功績を2つご紹介します。
日宋貿易で経済基盤を築いた
清盛は日宋貿易により財政基盤を確立しました。始めは伊勢で産出される水銀などを輸出していましたが、のちに博多に日本初の人工港を築き、瀬戸内海航路を掌握して貿易を本格化。承安3年(1173)には摂津国福原の外港・大輪田泊で正式に海外との貿易を行っています。また、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎も築きましたが、宋銭の大量流入による物価の乱高下が起こり、海外への不安を招くこともありました。
日本初の武家政権を打ち立てた
清盛は日本初の武家政権を打ち立てたことでも知られています。それまでの貴族政治を廃し、武士による政治の基礎を築いたことは、彼の残した優れた功績です。もともと伊勢平氏の棟梁の家系にうまれたことも大きな要因ですが、交易に目をつけ経済を成長させるなど、先見性の高さがこのような功績につながったのかもしれません。
「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめた
清盛は武士として初めて太政大臣になり、日本初の武家政権をつくりました。その勢力のすさまじさは、『平家物語』において「平家にあらずんば人にあらず(原文:此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし)」と記載されるほどだったといいます。悪者としても名高い清盛ですが、のちに確立された武家政権・鎌倉幕府にも影響を与えたことを考えれば、日本史上において大きな功績を残したといえるでしょう。
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