【足立遠元(あだちとおもと)】文官の才を兼ね備えた文武両道の坂東武者!

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【足立遠元(あだちとおもと)】文官の才を兼ね備えた文武両道の坂東武者!

鎌倉時代に発足した集団指導体制「十三人の合議制」では、様々なルーツを持った宿老がメンバーとして名を連ねています。その中の一人である足立遠元(あだちとおもと)は、もともと武蔵国(現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡)を本拠とした人物でした。そんな遠元がどのようにして源頼朝に仕え、幕府の要人となったのでしょうか。

今回は、遠元の生まれや頼朝に仕えるまでの経緯、幕府内でどのような働きをしたのかについてご紹介します。

頼朝に本領安堵されるまで

まずは、遠元の誕生から頼朝に合流するまでを見ていきましょう。

在地豪族・藤原遠兼の子として誕生

安達盛長の肖像です。

遠元は、武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族・藤原遠兼の子として誕生しました。生年や系譜に関しては諸説ありますが、日本初期の系譜集『尊卑分脈』によると、藤原北家魚名流(ふじわらほっけうおなりゅう)の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)の末裔といわれています。山蔭は平安時代前期に公卿(国の最高幹部として国政を担う立場)として活躍した人物で、遠元のルーツをたどると由緒正しい家柄だといえます。

遠元が武士として大きな活躍を見せたのは、平治元年(1159)に源義朝と平清盛が対立した平治の乱でした。義朝に仕えていた遠元は、源義平率いる17騎の一人として平家軍と戦い、武功を上げています。

ちなみに、後に頼朝の側近中の側近として活躍する安達盛長は遠兼の弟といわれており、遠元から見ると年下の叔父にあたります。

東国武士初の本領安堵

平治の乱で活躍した遠元ですが、一連の戦いで義朝が討たれてしまいます。主君を亡くした遠元は、治承4年(1180)に義朝の息子である頼朝の挙兵に応じ、頼朝の配下になりました。

この挙兵は遠元にあらかじめ知らされてあったようで、石橋山の戦いでの敗戦から再起を図るために下総国(現在の千葉県北部、及び茨城県南西部)から武蔵国に入った頼朝を、豊島清元(としまきよもと)・葛西清重(かさいきよしげ)父子と共に、武蔵武士の誰よりも早く出迎えたといわれています。

このことが評価された遠元は、頼朝が鎌倉を制圧した後に武蔵国足立郡を本領安堵されています。本領安堵とは、忠誠を誓った家臣に対して領地の所有を保証することを指し、遠元は東国武士として初めての本領安堵でした。頼朝が遠元の働きを大きく評価していたことがうかがえます。

公文所の寄人に抜擢

頼朝に仕えることになった遠元は、元暦元年(1184)に設置された公文所の寄人に任命されます。

公文所とは?

公文所とは、公文書の管理や指揮・命令・政務・財政・徴収・訴訟といった重要事項を一手に行う実務機関のことです。寄人とは機関に所属する担当者のことを指し、政務や財政に詳しく文筆の能力も問われるポジションでした。

武士出身は遠元ただ一人

公文所の別当(長官)は有力御家人である大江広元で、寄人は遠元のほかに中原親能、二階堂行政、藤原邦通、大中臣秋家といった人物が選ばれました。実は、遠元を除く寄人の4人は貴族の出身で、武士出身は遠元だけでした。そのため、遠元は武士でありながらも文官としての能力も高かったことがわかります。

幅広い縁戚関係

武士としてだけでなく文官としての能力も発揮することになった遠元。その後は貴族文化や朝廷の知識も培っていきます。

餞別の儀

公文所の設置と同年に行われた平頼盛(たいらのよりもり)の餞別(せんべつ)の儀には、「馴京都之輩(京都に馴れている者)」として参列したと伝えられています。餞別の儀とは、赴任などで遠くに出発する際に宴会を開いて旅の無事を祈願する儀式のことで、文治2年(1186)には頼朝の義弟である一条能保(いちじょうよしやす)の餞別の儀を遠元の屋敷にて執り行っています。

さらに、建久元年(1190)年に頼朝が上洛した際に、遠元は右近衛大将(うこんえのだいしょう)拝賀の布衣侍(ほいざむらい)7人の一人として、参院の供奉(ぐぶ:祭礼などでお供の行列に加わること)を担当しています。

娘たちの嫁ぎ先

歌川国芳による、畠山重忠の肖像です。

餞別の儀や供奉などを滞りなく担当するためには、風流な貴族文化や朝廷などの儀式に関する知識に精通していることが必要不可欠です。ですが、遠元は文官としての能力はあるものの坂東武者の出身なので貴族や朝廷の事情にあまり詳しくないはずです。遠元が朝廷の事情に精通した理由は、主に2つ考えられます。

1つ目は、大番役として上洛していたことです。遠元は、京の御所や内裏などの警護役として上洛したことがあり、その際に朝廷でのしきたりや文化を学んでいったと考えられます。

2つ目は、娘の嫁ぎ先です。遠元の娘の一人は、後白河天皇の近臣である藤原光能に嫁いでおり、藤原知光・藤原光俊を産んでいます。このことから朝廷内で深いつながりを有し、朝廷の事情やしきたりに明るくなっていったとも推測できます。

また、このほかにも別の娘を畠山重忠や北条時房に嫁がせて男子をもうけているなど、遠元は朝廷内だけでなく幕府の中でも幅広い縁戚関係を築いていきました。

奥州合戦で武功を上げ、左衛門尉を与えられる

文官としての能力や朝廷のしきたりに詳しくなった遠元ですが、武士としての能力も衰えていませんでした。文治5年(1189)に起こった奥州合戦に参戦した遠元はその武功が認められ、成功(じょうごう=売官制度の一種)推挙が与えられた10人のうちの一人に入り、左衛門尉(さえもんのじょう)という官位が与えられています。三浦義村や比企能員といった頼朝亡き後も影響力を持った有力御家人たちと肩を並べて推挙が与えられており、頼朝が大きく評価するほどの活躍を見せたことがわかります。

十三人の合議制の一人に

建仁寺所蔵の源頼家像です。

建久10年(1199)頼朝が亡くなると、嫡男である源頼家が18歳の若さで家督を相続します。ところが、頼家はこれまでの慣例を踏まえずに独裁政治を行ったため、多くの御家人が不信感を募らせる事態になります。そのため、有力御家人13人による合議制という仕組みを決定し、頼家独裁の抑制を図りました。これが「十三人の合議制」と呼ばれており、遠元もこのメンバーに名を連ねて、幕政をサポートしました。しかし、『吾妻鏡』によると建永2年(1207)の闘鶏会参加を最後に遠元は史料から姿を消しているため、この時期には遠元は亡くなったといわれています。

遠元はその武力で鎌倉幕府が始まる前から頼朝の信頼を得て、文官としても幕府を裏から支えました。そんな遠元に対し、頼朝は奥州合戦が終了した際に特別な官位を与えるなど、最も信頼を置く人物の一人として接していたのかもしれませんね。

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