幕末の動乱期には様々な人物が活躍しましたが、高杉晋作はその中でも特に異彩を放つ一人だったといえるのではないでしょうか。長州の政権を奪取して討幕を推し進めたり、身分の壁を取り払って組織した「奇兵隊」を組織したりするなど、彼の行動や考え方は同じ時代を生きた志士たちにも多大な影響を与えました。
高杉は、27年という短い生涯の中で多くの名言を遺しました。それらの名言からは、国を思い、幕末の動乱を駆け抜けた彼の人物像をうかがい知ることができます。
今回は、高杉晋作が遺した名言とその言葉たちに込められた意味から見える、高杉の人物像についてご紹介します。
高杉晋作の経歴
高杉晋作は、天保10年(1839)に、現在の山口県である長州藩で生まれました。高杉家は、戦国時代の大名である毛利元就の時代から、毛利家に仕えてきた名門。上級武士の長男として生まれた高杉は、幼いころから優等生でした。しかし、次第に物足りなさを感じた高杉は、親に内緒で私塾である「松下村塾」に入門します。ここで、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋ら幕末から明治にかけて活躍する人物とともに学びました。
松下村塾で多くのことを学んだ高杉は、文久2年(1862)、藩命により上海に渡航します。そこで、戦争に敗れ西欧の支配を受ける中国の実情を目の当たりにしました。当時の日本も欧米列強の脅威にさらされていた時期であり、高杉は大きな危機感を抱くことになります。
文久3年(1863)当時の長州藩は、尊王攘夷を掲げ、下関・関門海峡を通行する外国船を砲撃しました。その後、外国艦隊の攻撃に備えるために、高杉は身分の枠を取り払った軍隊である「奇兵隊」を結成しました。少ない兵力で虚を突き、神出鬼没な戦法を得意とした奇兵隊は、この後に起こる明治維新において大きな歴史的役割を果たします。
高杉と同じ長州藩士で、のちに日本初の総理大臣となった伊藤博文は、高杉の人物像について「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」と最大級の賛辞をおくりました。
長州藩、そして明治維新においても強い存在感を示した高杉でしたが、突然の病魔が彼を襲います。当時、不治の病とされていた肺結核に侵されてしまったのです。高杉は慶応2年(1866)、下関郊外に小さな家を建てて療養生活に入りましたが、慶応3年(1867)、明治維新が終わるのを見届けることなく、その人生に幕を閉じます。わずか27歳という生涯でした。
高杉晋作の名言集
高杉は、その生涯で数々の名言やエピソードを遺しています。今回は、その中から5つをご紹介します。
おもしろき こともなき世を 面白く
高杉晋作の名言の中で、この歌を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
この歌は、肺結核に侵されて療養していた際に作られました。この歌には「すみなすものは 心なりけり」という下の句があり、療養中の高杉の面倒を見ていた福岡の勤王歌人である野村望東尼(のむらぼうとうに)が付けたものです。ちなみに、正確には「おもしろき こともなき世に おもしろく」で、「世に」が「世を」に変わったのは後世の改作だと言われています。
国を思い幕末の動乱の中を生きた高杉は、自分の命が尽きようとしたときにふと人生を振り返り、「こんな世の中なんて、ちっとも面白くなかった」と不満げに歌を託したのかもしれません。それを野村望東尼は「それは心がけ次第だ」と優しく諭しているのです。
ちなみに、司馬遼太郎の小説「世に棲む日日」では、この歌は辞世の句として登場するのですが、実際は高杉が亡くなる4カ月以上前に作られた歌でした。この歌が高杉の名言として広く知られているのも、この歌を強く印象付けるように構成した司馬遼太郎のテクニックによるものがあるかもしれません。
今日より長州男児の肝っ玉を御目にかけます
この言葉は、尊王攘夷派の精神的支柱である三条実美ら五卿に向かって宣言したものです。
元治元年(1864)7月に御所に向けて発砲した罪で朝敵となった長州藩は、幕府から大軍を送られ危機に陥ってしまいました。その結果、長州藩は幕府に恭順することを決定し、討幕派の弾圧が始まりました。この状況をみて高杉は、恭順派政権の打倒を決意するのですが、恭順派の後ろには幕府が控えていたため、高杉に賛同する者はほとんどいませんでした。結局、高杉に同調したのはわずか80人ほど。普通に考えれば勝ち目のない戦いでしたが、高杉は命を捨てる覚悟で恭順派政権に挑みます。
そして、いよいよ挙兵するにあたって、先の言葉を宣言しました。
高杉軍は、怒涛の勢いで進軍していきます。長州藩の要所だった下関の藩会所、三田尻の海軍局の襲撃に成功したのです。しかも、大活躍をみせる高杉軍に惹かれ、多くの兵が味方に加わる事態になりました。その結果、わずか80人ほどだった高杉軍は、3000人にまで膨れ上がりました。彼らは恭順派政府軍を大田、絵堂で撃ち破り、恭順派から政権を奪取したのです。
長州の政権を奪取する。三条らに強く決意した高杉の行動力が、奇跡を起こしました。
男子というものは、困ったということは、決して言うものじゃない
この言葉は、高杉が後輩の田中光顕に対して言ったものです。
この言葉について、高杉は次のように語っています。
自分は、父からやかましく言われたが、自分どもは、とにかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある。あれはよろしくない。いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもんだ。困るなどということは、あるものではない。
もともと、この言葉は高杉が父親から聞かされていたものでした。高杉の父親は実直な武士で、高杉を常に監視する役に回っていたことから、高杉は父親に頭が上がらなかったそうです。同時に、それだけ尊敬の念が厚かったことがうかがえます。
高杉は、この言葉を田中に伝える際に、
平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという一言だけは断じて言うなかれ
と、かなり厳しい一言を付け加えています。
田中は明治維新後に岩倉使節団の一員として、欧米諸国を視察。帰朝後は警視総監、貴族院議員などを歴任し、第3次伊藤内閣で宮内大臣を務めるなど、宮中政治家として活躍しました。田中は昭和14年(1939)に97歳でその生涯を閉じたのですが、長生きの秘訣について尋ねられた際にこう答えたそうです。
左様なものは少しもない。もしあるとすれば、高杉が与えたこの一言にすぎない。「困った」という失望的言辞を吐露せざるところにある。
人は愚を学ばねばならぬ
この言葉は、高杉が奇兵隊の新人隊士だった三浦梧楼にかけた言葉です。
高杉は少年のころに江戸前期の陽明学者・熊沢蕃山が執筆した「集義和書」を愛読していました。その中に、
学問をしていても「利発」と評される人になるな、「愚者」になれ
という教えがありました。当時から器用に生きることができなかった高杉は、この一言で大いに励まされたそうです。
さらに、高杉が投獄されたときの様子が書かれている「投獄文記」では、
余も世間の愚者とならんことを願い、ようやく苦穴に陥るまでに勉強致せしゆえに、世間の利発家者流の人は、吾が志を知らざる者なり。
とあり、高杉の「愚者になる」ということに対する強いこだわりがうかがえます。
この言葉をかけられた三浦は、のちに陸軍中将、貴族院議員などを歴任するほどの人物になりました。三浦は当時の自分を「吾輩はなかなかの負けずぎらいで、剣術をやれば、人の肩をたたく、槍を使えば、足を突く、ただ勝ちさえすればよいというふうであった」と回顧しており、高杉にかけられた言葉について「どうもその意味がよくわからなかったが、四十を越えてやっと解せたよ」と話していたそうです。
明治から大正にかけて活躍する大物政治家となった三浦でも、高杉から言葉をかけてもらった感動を忘れられなかったようです。
三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい
この言葉は、高杉が三味線を弾きながら歌ったとされる都々逸(どどいつ)です。都々逸とは、幕末期から明治中期にかけて生まれた宴席の歌で、「ど、どいつだ」という囃子詞(はやしことば)からこの名称になりました。
歌は遊郭の遊女に宛てたもので、様々な解釈がありますが 「夜明けに騒ぐ世界中の烏を全て殺してでも、お前とゆっくり朝を迎えたいものだ」といった心境を歌っています。
残念ながら、この都々逸が高杉の作品だという根拠はありませんが、ほかにも高杉が作ったとされる都々逸がいくつか存在します。さらに、国に貢献した人物を絵入りで紹介した伝記では、江戸の妓楼で酒を飲む高杉の様子が描かれており、粋な遊び人になるための修業をかなり積んでいたのかもしれません。
ちなみに、高杉の遺品として伝わっているものの一つに、ある三味線があります。この三味線は、なんと分解して持ち歩くことができる折り畳み式のもの。天保元年(1830)に下関の三味線職人が製作した遊び心あふれる逸品で、高杉の「モノ」に対するこだわりがうかがえます。
名言から読み取れる高杉晋作の人物像
周囲からは「鼻輪の無い暴れ牛」と評されたとも言われるくらい豪快な人柄だった高杉ですが、実は多くの人物に慕われていました。例えば、晩年の高杉を献身的に看病していた野村望東尼は、玄界灘姫島に流罪となっていた時期がありました。その際、高杉の命を受けた者に救出され、下関に迎えられたことで、高杉に対する恩を感じていたようです。
命がけで政権を奪取したのに地位や名誉に興味を示さなかった高杉は、若者の間でもカリスマ的存在となりました。そんな高杉を慕っていたのは、奇兵隊の隊士や幕末の志士だけではありません。長州の政権を奪取する際は地元の庄屋など豪農からも支持されており、庶民からの信頼も厚かったのです。
また、高杉は生涯で400もの詩を遺しており、文学にも造詣が深い人物でした。幕末を生きた偉人から地元の人々まで、多くの人物が高杉を慕う理由は、死を恐れない豪快さと文学で培った思慮深さを併せ持つ彼の魅力に惹かれたから、かもしれません。
【参考文献】
「晋作語録」一坂太郎(第三文明社)
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