日本の歴史はいくつかの時代にわけられますが、その中でも建武3年(1336)に始まった武家政権は「室町幕府」と呼ばれています。この幕府が足利尊氏によって作られたことは有名ですが、最後の将軍となった足利義昭についてはあまり知られていないかもしれません。
室町幕府は約240年も続く政権でしたが、織田信長ら戦国武将の台頭により衰退しました。その時代を生きた最後の将軍・義昭とはどのような人物だったのでしょうか。
そこで今回は、義昭が将軍となった経緯や信長との対立、羽柴秀吉との関係性などについてご紹介します。
足利義昭の生い立ちと室町幕府
義昭が将軍になるまでには長い道のりがありました。彼が将軍になった背景には、どのような事情があったのでしょうか。
生まれから将軍になるまで
義昭は天文6年(1537)第12代将軍・義晴の次男として生まれました。将軍職は兄・義輝が継ぐことになっていたため、嗣子以外の男子は出家させるという足利家の慣習にならい仏門に入ります。その後は覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院で権少僧都(ごんのしょうそうづ)になりました。
しかし、永禄8年(1565)、第13代将軍の兄が松永久通や三好三人衆によって暗殺されると状況が一変。彼自身も興福寺に幽閉されましたが、兄の側近に助けられ脱出に成功し、以降は室町幕府再興を掲げて自分が足利将軍家当主になることを決意します。
将軍就任のために上洛を目指す義昭でしたが、道中を援護してくれる者はなかなかいません。そんな中で義昭が頼ったのが、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いだった信長でした。交渉役となった明智光秀により信長と通じることに成功した義昭は、信長に擁立されてついに入京。14代将軍・義栄が死去したのち、朝廷の宣下によって第15代将軍に就任したのです。
室町幕府の権力の復興を誓う
将軍となった義昭は、幕府再興のためにさまざまな行動を起こしました。まずは三好三人衆を庇った近衛前久(さきひさ)を朝廷から追放。幕府の実務には義輝と同じく摂津晴門を起用し、義昭とともに行動していた奉行衆を復職させます。また管領家や関白家には領地を与えるなど、政権の安定を計りました。
その他にも烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)を本拠として整備し、二重の水堀や高い石垣など防御力の高い将軍邸を築いています。この本拠には代々室町幕府に仕えてきた者や旧守護家の者が参勤するようになり、義昭は室町幕府再興を果たしたのです。
強まる織田信長との対立
念願の幕府再興を遂げた義昭ですが、上洛の際に頼った信長との関係が徐々に悪化していきます。そして、やがて二人は対立するようになったのです。
信長包囲網と義昭
義昭は信長の武功を称え、彼が望んでいた尾張・美濃の領有と和泉の支配を認めました。さらに管領の地位や副将軍への推挙もしています。しかし、幕府再興を願う義昭に対し信長は武力による天下統一を目指しており、この思惑の違いが両者の溝を深めていきます。
この頃の信長は将軍の後見人として権勢を振るっており、将軍の権力を牽制するため「殿中御掟」という掟書を義昭に承認させました。このような状況に不満を募らせた義昭は、信長の影響力を抑制しようと考え、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如、武田信玄、六角義賢らに御内書を送り、反信長連合の「信長包囲網」を張ります。この包囲網は、以前から信長と対立していた朝倉義景や浅井長政、義輝の敵だった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わるほど大きなものでした。
信長に敗れ、京を追われる
信長包囲網により信長と対立した義昭でしたが、二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠ったものの最後には降伏することとなります。信長は京都から義昭を追放し、将軍家の領地を自分のものにしました。こうして信長包囲網は瓦解し、天下人となった信長による織田政権が誕生したのです。
追放された義昭は、顕如らの仲介で河内若江城へ、ついで和泉の堺へと移りました。また翌年には紀伊国の興国寺、田辺の泊城にも移っています。天正4年(1576)には輝元を頼って備後国の鞆へ移動、ここでの生活は御料所からの年貢や武将からの支援もあり窮迫していなかったようです。
この頃、義昭は京への帰還や信長追討を願い、全国の大名に御内書を出しました。再び信長包囲網を形成するために、対立していた武田、北条、上杉氏に和睦(甲相越三和)を命じるなど、室町幕府再興をもう一度目指したようです。
関白秀吉と将軍義昭
京を追放された義昭ですが、信長が本能寺で命を落とし、信長に代わって秀吉が天下人となったことで状況が大きく変化します。信長の死と関白秀吉の登場は、義昭にどのような影響を与えたのでしょうか。
信長の死の影響
天正10年(1582)信長とその嫡子・信忠が明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こります。義昭はこれを機に輝元や秀吉、柴田勝家らに上洛の支援を依頼し、翌年には輝元・勝家・徳川家康から上洛の支持を受けます。
天正13年(1585)秀吉が関白になると、その後2年半は「関白秀吉と将軍義昭」という時代が続きました。九州を治める島津義久に対して秀吉と和睦するよう勧めるなど、信長時代とは違い、義昭は秀吉とうまく連携していたといえるでしょう。
将軍義昭の最期
義昭は京への帰還を果たしますが、その翌年には将軍を辞し、戒名をもらって昌山(道休)と称するようになります。この頃の義昭は山城国槇島の1万石を領地として認められており、殿中では元将軍として厚い待遇を受けていたようです。
秀吉との関係は良好だったようで、文禄・慶長の役の際は秀吉から要請を受け軍勢200人を引きつれて参戦しています。晩年には秀吉の御伽衆の一人となり、良き話し相手となりました。
仏門に入ったのち将軍に就任するという数奇な運命を辿った義昭ですが、慶長2年(1597)8月に死去。死因は腫物とされていますが、老齢での出陣が堪えたのではないかとも考えられています。
流浪生活を経験した将軍
義昭は幕臣に守られたり諸大名を頼ったりしながら、何度も諸国を流浪しました。そのような背景から「貧乏公方」と噂されたといいます。しかし彼は、紆余曲折ありながらも61歳まで生きのびました。当時の日本人としては長生きだったといえるでしょう。
有力な戦国武将が台頭したこの時期、幕府再興は容易ではありませんでした。それでも義昭は、流浪生活に耐えながら室町幕府最後の将軍となったのです。
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