【新陰流:柳生十兵衛(三厳)】隻眼の剣豪の生涯と残された逸話

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【新陰流:柳生十兵衛(三厳)】隻眼の剣豪の生涯と残された逸話

日本史上にはさまざまな剣豪がいますが、柳生十兵衛(三厳=みつよし)は江戸時代に活躍した剣士の1人として知られています。十兵衛は新陰流という剣術の流派を父から引き継ぎ、後世に発展させた人物です。また、藩主として政務にあたるといった一面もありました。創作作品での脚色が多い十兵衛ですが、実際はどのような人生を歩んだのでしょうか?
今回は、十兵衛のうまれや幕府への出仕、家督継承と最期、十兵衛にまつわる逸話などについてご紹介します。

剣豪・柳生宗矩の子として

剣豪として有名な十兵衛ですが、青年期は紆余曲折あったようです。彼のうまれや徳川家光への出仕について振り返ります。

小姓として徳川家光に仕える

金山寺蔵の徳川家光像です。

十兵衛は慶長12年(1607)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で、新陰流免許皆伝者の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とその妻・おりんの長男として生まれました。幼名は七郎、十兵衛という名前は通称です。父・宗矩は徳川秀忠の兵法指南役でもあり、のちに柳生藩の初代藩主となりました。10歳のときに父に連れられて秀忠に謁見した十兵衛は、13歳で徳川家光の小姓となります。元和7年(1621)に宗矩が家光の兵法指南役に就任すると、家光の稽古の相手となり特別な待遇をうけました。

蟄居命令により、故郷へ

寛永3年(1626)家光の怒りに触れた十兵衛は、蟄居を命じられます。家光の怒りの原因は定かではありませんが、なかなか再出仕は許されず、10年前後にわたり江戸を離れました。故郷の柳生庄に引きこもった十兵衛は、祖父や父の口伝や目録について研究したり兵法を研さんしたりしたといいます。また、祖父の門人を訪問することもあったようです。ただし十兵衛にはさまざまな伝説があり、この蟄居期間に諸国を巡って武者修行したという説も残されています。

江戸への帰還と再出仕

長いあいだ蟄居していた十兵衛ですが、やがて江戸へと戻ります。その後の十兵衛はどのように過ごしたのでしょうか?

父から剣術の印可を受ける

沢庵宗彭の書跡『夢語』です。

家光の兵法指南役に就いた父・宗矩は、家光からの信任を得て累進し、寛永13年(1636)には大名となり大和国柳生藩を立藩していました。そんななか、寛永14年(1637)に十兵衛はついに江戸に帰還します。柳生藩邸に滞在しながら新陰流の相伝を受けた十兵衛は、同年、それらの至極を伝書にまとめました。しかし、その内容を見た父からすべて焼き捨てるよう命じられてしまいます。驚いた十兵衛は、宗矩の友人である臨済宗の禅僧・沢庵宗彭に相談。すると沢庵は宗矩の真意を説き、伝書を加筆修正しました。これにより父の言わんとするところを悟った十兵衛は、再度伝書を提出し、ようやく宗矩に認められて印可(悟りを得たことを証明認可すること)を受けたのでした。

江戸城御書院番に就任

寛永15年(1638)家光に重用されていた異母弟・柳生友矩(とものり)が病により辞職し、再出仕が許された十兵衛は江戸城御書院番に就任しました。書院番とは江戸幕府の徳川将軍直属の軍団で、その職務は江戸城内の警備や江戸市中の巡回、将軍外出時の随行、幕府巡見使としての諸国派遣など多岐にわたります。十兵衛の場合は、家光の前での兵法披露などもしていたようです。寛永19年(1642)には、故郷に引きこもっていたあいだに収集した資料などをもとに、新陰流の知識をまとめて『月之抄』を執筆。これはのちに彼の代表作となりました。

家督継承と最期

家光に再出仕した十兵衛でしたが、父の死により状況が変わります。十兵衛の家督の継承から最期までについて振り返ります。

8300石を相続して藩主へ

正保3年(1646)父・宗矩が死去し、遺領は家光の裁量によって兄弟間で分けられることになりました。十兵衛は8300石を相続して家督を継承。このとき1万石を下回ったため、立藩から11年目にして大名から旗本の地位に戻りました。そのため十兵衛は大名ではありませんが、便宜上、柳生藩2代目藩主とされています。
十兵衛は強く勇ましく、周囲がそのようすを恐れて従うような人物でした。しかし、家督継承後は寛容な性格になり、家風を守りながら政務に励んだといいます。また身分の低い者にも哀れみを持ち、処罰もしなかったようです。その一方では家業の兵法の発展にも努めました。

大名に返り咲いた柳生家

柳生藩主となった十兵衛でしたが、慶安3年(1650)鷹狩のために出かけた先で急死します。奈良奉行により検死が行われ村人たちも尋問されましたが、死因は不明のまま柳生家の菩提寺・中宮寺(奈良市柳生下町)に埋葬されました。十兵衛には跡継ぎとなる嫡子がいませんでしたが、父の勲功により柳生藩の存続が認められ、同母弟・柳生宗冬が自身の領地を返上して柳生藩を継承。宗冬は加増を重ねていき、やがて総石高1万石以上で再度大名となり柳生藩の地位を回復させました。

十兵衛にまつわる逸話

十兵衛はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話についてご紹介します。

隻眼の剣豪といわれる理由とは?

十兵衛は片目に眼帯をつけた隻眼の剣豪として知られています。『正傳新陰流』には、幼いころの稽古で父・宗矩の木剣が目に当たったとあり、『柳荒美談』では、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために小石を投げて目に当たったと記されています。このように隻眼の理由にはさまざまな説がありますが、当時の史料には隻眼との記述はなく、肖像画とされる人物には両目が描かれているようです。もしかすると、強い剣豪のイメージとして創作されたものかもしれません。

桂小五郎・高杉晋作も学んだ「新陰柳生当流」

萩藩校・明倫館。現在は観光地「萩・明倫学舎」となっています。

十兵衛の祖父・柳生宗厳(むねよし/むねとし/そうごん)には柳生松右衛門という高弟がおり、彼の伝えた新陰流は長州藩で広まっていました。松右衛門の高弟である内藤元幸は、子・就幸にそれを伝授。就幸は家中で新陰流を指南していましたが、十兵衛の噂を聞いて江戸で弟子入りします。内藤家では十兵衛により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々伝えました。これはのちに長州藩の藩校・明倫館でも採用され、幕末で活躍する桂小五郎や高杉晋作らも学んだそうです。

蟄居の原因は酒グセの悪さ!?

十兵衛は酒好きで、酔うと言動が荒くなるタイプだったようです。家光からの蟄居命令もこの酒グセの悪さが原因ではないかといわれており、再出仕の際に沢庵からも忠告されています。しかし、彼の酒好きはおさまらなかったようで、朝から寺に酒を持参し僧たちに振る舞うなどの行動が『沢庵和尚書簡集』に記されています。

柳生十兵衛と宮本武蔵

十兵衛と近い時期に活躍した剣豪に宮本武蔵がいます。もし戦ったらどちらが強いのか……そんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。史料には二人の接点はありませんが、十兵衛の父・宗矩と武蔵については、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害したといった逸話が残されています。ただし、宗矩と武蔵についても確かな史料には接点が見られず、創作の可能性が高いようです。

講談でさらなるヒーローに!

剣豪として幕府に仕え、将軍に剣術を指南・披露するなど活躍した十兵衛。後世では彼を主人公とする講談が多く創作されました。それらの作品のなかで活躍を盛られたことで、十兵衛はヒーローとして広く知られるようになったといえるでしょう。酒グセの悪さなど素行に少々問題があった十兵衛ですが、剣術の腕は達人です。その大きなギャップが彼の魅力といえるかもしれませんね。

 

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