お盆のこの時期、お墓参りに行く方も多いことでしょう。
特に偉人のお墓となると全国各地にいくつも存在しており、皆さんも一度は訪れたことがあるのではないでしょうか。
しかし、どのような理由から全国各地に複数のお墓を作る事になったのでしょうか。今回は、複数の墓を持つ戦国武将たちのお墓事情についてご紹介します。
大坂夏の陣で活躍した真田幸村のお墓事情
大河ドラマ「真田丸」の影響で、2016年一番訪れる方が多いのが、この人のお墓ではないでしょうか。
大坂夏の陣で徳川家康を追いつめ、「日の本一の兵」と称された真田幸村こと信繁。
実は、彼の遺骨が納められていると分かっているお墓はありません。
しかし京都・宮城・秋田・長野など全国に10カ所ほど供養塔や供養墓が建立されています。
・京都府京都市 龍安寺塔頭大珠院(非公開)
・京都府京都市 妙心寺塔頭養徳院(非公開)
・宮城県白石市 田村家墓所
・長野県長野市 長国寺
・福井県福井市 孝顕寺
・秋田県由利本荘市 妙慶寺
・鹿児島県南九州市 田原家私有林墓石
・長崎県南島原市 お篭もり堂
・秋田県大館市 一心院
・大阪府大阪市 心眼寺
宮城県白石市にある供養墓は、彼の娘・阿菖蒲が嫁ぎ先の田村家の墓所に、父・幸村の遺髪を埋葬し建立したとされています。
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大坂の陣のあと、秀頼とともに鹿児島へ逃げたという生存説もあり、そのことから鹿児島にも彼の墓が残っています。
今もって幸村の遺骨がどこにあるのかは謎のまま。気になりますね。
甲斐の虎・武田信玄のお墓事情
「風林火山」を旗に描いて戦に赴いた武田信玄。彼の墓も山梨、長野、和歌山など全国各地に多数存在します。
信玄の終焉地は信州駒場であるとされています。
しかしその死は、混乱を避けるために3年間秘密にするように遺言が残されていました。
その3年間、葬らえていたといわれているのが、この甲府岩窪です。
ちなみに安永8年(1779年)には甲府代官による発掘が行われ、「法性院信玄大居士四月十二日葬」という信玄の戒名と年月の銘文が刻まれた棺が発見されたという記録があるそうです。このことから、信玄が亡くなった直後に火葬されて遺骸を保管していたと考えられ、火葬塚とも呼ばれています。
その後、家督を相続した勝頼により、菩提寺である甲州市恵林寺にて信玄の葬儀が行われています。
恵林寺にある武田信玄公墓所では、信玄公を慕うかのように約70基もの家臣たちの墓が後陣に並んでいます。
通常は非公開のようですが、毎年命日の4月12日には供養が行われ、毎月12日のみ特別公開されているとのことです。
江戸幕府初代将軍・徳川家康のお墓事情
天下を太平に導き、戦国時代を終わらせた徳川初代将軍・徳川家康。
彼のお墓とされているのは静岡県にある久能山東照宮と、栃木県の日光東照宮の二つです。
家康亡き後、その遺言により久能山東照宮に埋葬されます。
家康の遺命に従って、西向きに建てられています。
その後、一周忌を経て、江戸城の真北に位置する日光東照宮に改葬されます。
家康の遺骨が埋葬されているかどうかは諸説ありますが、発掘調査は行われておらず、こちらも謎につつまれています。
はっきり分かれば歴史に残る事実となることでしょう。
とはいえ、どちらにおいても家康が祀られていることに変わりはありません。
今回は有名な戦国武将のお墓事情についてご紹介しました。
彼らのお墓には、その偉大さゆえに様々な事情や時代背景が絡み、いまだ謎に包まれている部分が多い事が分かりますね。
そんなエピソードも含め、全国各地にある偉人達のお墓を訪れてみると、より感慨深いのではないでしょうか。
ここでは一部しか触れていませんが、興味がある方はぜひ詳細を調べてみてくださいね。
参照元
真田の郷・蔵王町HP
乾徳山 恵林寺
久能山東照宮
日光東照宮
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