戦国三英傑のなかでも江戸幕府開府という大偉業を成し遂げた徳川家康。そんな家康の正室として知られるのが築山殿(つきやまどの)です。出世前の家康と結婚した彼女は、嫉妬深い悪女だったともいわれています。最後は暗殺されてこの世を去りますが、死の理由にはさまざまな説が囁かれているようです。一体なぜ築山殿はそのような悲劇の死を迎えたのでしょうか?
今回は、築山殿のうまれから結婚までの経緯、結婚後の生活、世継ぎ問題と最期、彼女の暗殺の理由などについてご紹介します。
うまれから結婚まで
築山殿は政略結婚で家康に嫁ぎました。彼女はどのような経緯で結婚に至ったのでしょうか?
築山殿の出自は諸説あり
築山殿の出自には諸説ありますが、今川家の重臣・関口親永(せきぐちちかなが)と今川義元の妹(または義妹/養妹)のあいだにうまれ、義元の姪にあたるといわれています。年齢についても、夫・徳川家康と同じ歳、2歳年上、一回り歳上などの説があり、詳細は不明です。当時住んでいた地名から瀬名姫と呼ばれており、結婚後に住まいを築山に移してからは、築山殿または築山御前、駿河御前などと呼ばれました。
今川家の人質・松平元信との結婚
弘治3年(1557)築山殿は松平元信(のちの徳川家康)と結婚します。元信は三河・岡崎城主の嫡子として誕生したものの、織田家に囚われたのち、駿府の今川家で人質として生活していました。義元は元信と姪・築山殿を政略結婚させることで、三河を支配し続けようとしたのです。結婚の2年後、二人のあいだには嫡男・信康がうまれ、翌年には長女・亀姫も誕生。しかし、今川家の娘と人質という格差のある結婚からか、夫婦仲は冷めていたといわれています。そして家康はのちに多くの側室を抱えることになりました。
桶狭間の戦い後、岡崎城へ
永禄3年(1560)織田信長軍と義元軍による桶狭間の戦いが勃発します。この戦いによって築山殿の生活はどのように変化したのでしょうか?
危機一髪!?駿府からの脱出
桶狭間の戦いで義元が討たれると、大高城に滞在中だった家康は駿府に戻らず岡崎城に入りました。岡崎城は家康の父・松平広忠が暗殺されてから今川家の支配下になっていたものの、松平家の家老たちが代わりに守っていたのです。混乱に乗じて岡崎城を奪還した家康は今川家の支配から独立し、信長と同盟を締結。義元のあとを継いだ今川氏真はこの裏切りに怒り、築山殿の父・親永とその正室は自害する事態に陥りました。
氏真は駿府に残されたままだった築山殿と子供たちを人質にしましたが、家康の家臣・石川数正の説得により、氏真の家臣と母子とを人質交換することで決着します。こうして築山殿は、駿府を脱し岡崎へと移ったのでした。
別居生活と岡崎城への入城
岡崎へと移った築山殿でしたが、岡崎城内ではなく城外にある総持寺の築山近くで暮らしました。当時の岡崎城には家康の生母・於大の方がいたため、今川方の血縁者だった築山殿は城内に入れなかったともいわれています。永禄10年(1567)信康と信長の長女・徳姫が結婚。3年後、家康の浜松城入城にあたって信康が岡崎城主となり、築山殿は城主の生母として岡崎城内で過ごせるようになりました。このころの家康と築山殿の仲はやはり芳しくなかったのか、家康は側室と会うばかりだったようです。
世継ぎ問題と悲劇の死
築山殿は信康と岡崎に留まり、家康とは別居状態が続きました。そんななか、世継ぎ問題で徳姫との確執が深まっていきます。
二女をもうけた徳姫、そのとき築山殿は……
徳姫は天正4年(1576)に登久姫を、翌年には熊姫を産みました。しかし、男児は授からなかったため、築山殿にとっては信康の跡取りがいない状況が続きます。その間、浜松城内では家康の側室・於万の方が男児を出産。数年後には別の側室も男児を授かりました。この状況を心配した築山殿は、旧武田家臣・浅原昌時の娘や日向時昌の娘らを信康の側室に迎えさせます。この行動は、築山殿と折り合いが悪かったといわれる徳姫を怒らせたことでしょう。そしてこの後、築山殿の運命を左右する出来事が起こったのです。
運命を決めた「12か条の訴状」
天正7年(1579)徳姫は、父・信長に「12か条の訴状」を送ります。そこには、夫・信康と不仲であることや、夫が日頃から暴力を働いていること、築山殿が唐人医師・減敬と密通したり武田家と内通したりしていることなど、築山殿と信康を非難する内容が書かれていました。信長からそれが事実かどうか詰問された徳川家重臣・酒井忠次は、信康をかばうことなく事実だと容認したといいます。これにより信長は家康に信康の処刑を命令し、家康は断腸の思いで承諾。築山殿は自害を迫られたものの拒否し、家康家臣の独断により殺害されます。また、信康も二俣城で自害しました。
なぜ築山殿は暗殺されたのか?
築山殿の死についてはさまざまな説があります。彼女の死の謎とは、どのようなものなのでしょうか?
「徳川信康事件」の真相とは?
「徳川信康事件」については、信長の命令によりやむを得ず信康の処分を決断したとする『三河物語』が通説となっています。しかし、これは江戸幕府成立後の歴史観によるもので、必ずしも事実とは限らないようです。信康夫婦の不和は事実とされているものの、信康の気性が激しく日頃から乱暴な振る舞いが多かったことや、築山殿が不貞を働いたことなどについては疑問も浮上しています。近年では、家康と信康のあいだで深刻な対立があったという父子不仲説も囁かれています。
愛人、内通……実はえん罪だった?
築山殿が武田家と内通したり減敬と密通したりといった内容は確かな史料には見られず、これらはえん罪だったとも考えられています。また、信長は築山殿の処分については触れていないようです。そのため、築山殿の暗殺については家康が処分を決めたとも考えられます。その理由には、信康の死を知った彼女が狂乱するのを防ごうとしたとする説や、築山殿と徳姫の不仲を問題視したとする説などがあります。
徳川家康は妻を殺そうとしていなかった?
家康は築山殿の死の報告をうけ、「女なのだから尼にでもして、逃してやればよいものを」と漏らしたといわれています。このことから、築山殿の死は家康にとって想定外だったとも考えられます。妻である築山殿に対し、何らかの処分を考えていたものの、それは自害を迫るようなものではなかったのかもしれません。
天下を見ず、悲劇の死を遂げた
家康の正室となった築山殿は、さまざまな史料で「嫉妬深い女性」と記されています。しかし、減敬との密通など一部のエピソードについては彼女をおとしめる中傷とする説もあり、真実は定かではありません。夫・家康は、のちに天下統一を果たし江戸幕府を開きますが、彼女はその天下を見ることなくこの世を去りました。12か条の訴状に端を発する「徳川信康事件」の真相には諸説ありますが、もし徳姫と不仲でなければ違う結果になっていたかもしれませんね。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」
放送日時:2021年4月7日(水)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/naotora/
出演:柴咲コウ(おとわ/次郎法師/井伊直虎)、三浦春馬(亀之丞/井伊直親)、高橋一生(鶴丸/小野政次)、杉本哲太(井伊直盛)、財前直見(千賀/祐椿尼)、貫地谷しほり(しの)、阿部サダヲ(竹千代/徳川家康)、菜々緒(瀬名/築山殿)、前田吟(井伊直平)、小林薫(南渓和尚)、柳楽優弥(龍雲丸)、菅田将暉(虎松/万千代/井伊直政) ほか
制作:2017年/全50話
作:森下佳子(『JIN-仁-』、連続テレビ小説『ごちそうさん』)
音楽:菅野よう子
語り:中村梅雀
コピーライト:©NHK
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