二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、鎌倉幕府の要職を代々務めた二階堂氏の始祖に当たる人物です。もともとは朝廷で役人を務めていましたが、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に仕えた後は、武功よりも文官としてのスキルを活かした実務面で貢献。頼朝亡き後に発足した有力御家人たちによる指導体制「十三人の合議制」のメンバーにも選ばれています。
今回は文官として幕府を支えた行政について、頼朝との関係や幕府内でのはたらきに触れてご紹介します。
源頼朝とは親類関係
下級貴族として生まれた行政ですが、実は頼朝とは母方のつながりで親類関係であったといわれています。
2人の母親はいとこ同士
行政の生年は不明ですが、日本初期の系譜集『尊卑分脈』によると、家系は奈良県にルーツを持つ藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで、父は工藤行遠、母は熱田大宮司である藤原季範の妹だと記述されています。季範の父は三河国を拠点としながら尾張目代を務めており、行政の祖父と父は遠江や駿河などに駐留してある程度の勢力を持っていたという見方もあります。
また、頼朝の母は季範の娘である由良御前です。行政の母とはいとこ同士にあたり、行政と頼朝は親類であったといわれています。
もとは朝廷の役人
頼朝に仕える前、行政は下級官人として朝廷に仕えており、平家政権下だった治承4年(1180)には主計少允(かずえのしょうじょう)という役職についています。主計少允とは、税収の調査や把握、監査を行う機関である「主計寮」における要職で、この時期には文官として確かなスキルを持っていたのかもしれません。
内政の要の一人として
朝廷に仕えていた行政は、鎌倉に向かい頼朝に仕えることになります。ここで、役人時代に培った文官としてのスキルを発揮していきます。
上棟式の奉行を務める
鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)に政務や財政を担当する機関である公文所の上棟式を三善康信とともに担当し、式が滞りなく進むために手回ししていたと記述されています。上棟式とは、家屋を建てる前に行う儀式のことで、この少し前に鎌倉に下向し、行政の母と頼朝の母がいとこ同士だった縁により頼朝に仕えることになったと考えられています。
また、公文所が完成した後に行われた「吉書始(年始・改元・代始・政始・任始など新規開始の際に吉日を選んで文書を総覧する儀式)」では、別当(長官)である大江広元のもとに寄人として出席しており、この時にはすでに公文所内で高い地位を得ていたのではないかと推測されます。
頼朝に付き従い奥州へ
文治5年(1189)行政は、頼朝が奥州藤原氏を討伐するために行った「奥州合戦」に従軍しました。『吾妻鏡』によると、父・藤原秀衡の死去により奥州藤原氏第4代当主となった藤原泰衡の郎党、由利維平を頼朝軍が生け捕った件で、相論(訴訟して争うこと)の奉行を行っていたと記述されています。さらに、奥州合戦の顛末(てんまつ)を朝廷に報告する際の資料も行政が作成したとも記述されており、行政が培ってきた文官としてのスキルがいかんなく発揮されているのがうかがえます。
合戦の経過を細かく把握していないと、朝廷に報告するための資料を作成することはできません。そのため、奥州合戦で軍事全般の総指揮を行っていたのは行政なのではないかという見方もあります。
政所の次官に就任
建久元年(1190)に後白河法皇への謁見に頼朝が上洛した際には、京都までの旅路のスケジュール調整や後白河法皇への奉納金の手配といった業務を担当しました。
その後、建久2年(1191)(元歴2年(1185)の説もあり)には公文所が政所に改められ、行政は同所の別当である広元に次ぐ「令(次官)」に就任します。訴訟事務を所管する問注所や御家人の統率と警察の任務を担当した侍所などの機関も同時期にでき、行政は令としてこれまでと同様に文官として雑事を含めた裏方業務に精を出します。
二階堂の由来
実は、行政は鎌倉に下向してからもしばらくの間は「工藤行政」と名乗っていました。ですが、あることがきっかけで二階堂を名乗るようになります。
寺の付近に屋敷を構えたことがきっかけ
頼朝は、奥州合戦をきっかけに中尊寺を模した寺院の建立を決意しました。泰衡をはじめ、これまでの合戦で犠牲となった数万人にも及ぶ命を供養する場所をつくりたいと考えたのです。行政はその寺院を建立するための責任者として抜擢され、建久3年(1192)に永福寺の本堂が完成しました。
その仏堂が当時としては珍しく2階建てだったことから「二階堂」と呼ばれており、行政は自身が居住していた屋敷を永福寺の近くに構えていたため、「工藤」から改めて「二階堂」と名乗るようになったのです。
屋敷を訪れた頼朝
ちなみに、行政の屋敷を頼朝が訪れたことがあります。建久3年(1192)、永福寺の庭に池を掘らせる工事があったため、それを監督するために頼朝は工事前日から行政の屋敷に宿泊したのです。
工事では有力御家人である畠山重忠が一丈(約3m)はある石を一人で運んで協力したり、工事が終わった後はこれまた有力御家人である三浦義澄をはじめとした宿老たちが酒や肴を持ち寄って頼朝らとともに宴を催すなど、行政の屋敷には頼朝だけでなく宿老たちも出入りしていたことがうかがえます。
行政、政所別当に就任
別当に次ぐ地位に就いた行政は、幕府内の雑事に従事した結果、ついにはトップである別当に就任します。
政所別当の一人に
建久4年(1193)政所別当が複数制になると、行政は文官としてはほぼ頂点に位置する別当に昇格します。同じく別当を務めていた広元は朝廷との折衝のために上洛することが多かったため、広元が不在の時には行政が幕府における実務の中枢を担っていたとされています。
民部大夫と称される
令になるまでの地道な努力と、別当になってから実務の中枢を担う活躍。これまでの働きが頼朝から高く評価され、行政は「民部大夫(みんぶのたいふ)」と称されるようになりました。これは役人の中でも特別な立場にある人を指す呼び方で、行政の仕事ぶりがどれほど幕府に貢献したのかがうかがえます。
静かな最期を迎える
頼朝の死後、行政は十三人の合議制のメンバーとなり、引き続き幕府の実務を支えることになります。その後は残念ながら政所の署名からも名前が消え、没年も不明。権力争いに巻き込まれた記録もないため、静かな最期を迎えたのではないかと推測されています。
ですが、行政の子孫たちは幕府の要職である政所執事をほぼ世襲しています。武士として華々しい武功を上げた記録は乏しいですが、文官として幕府を裏から支えた行政の活躍は、子孫にも良い影響を与えたようです。
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