徳川家康の孫にして淀殿の姪にも当たる千姫は、織田と徳川の血を引くハイブリッドな姫君でした。しかし彼女に運命づけられたのは、戦国の姫たちの中でもトップクラスに悲しい道だったのです。今回は、そんな彼女の生涯や人となりについて見ていきましょう。
千姫の生涯
徳川秀忠と江の長女として慶長2(1597)年に生まれた千姫は、7歳で従兄弟の豊臣秀頼と結婚し、大坂城へ輿入れしました。徳川と豊臣の間の政略結婚となったわけです。
そこで成長した彼女ですが、秀頼との生活は長くは続きませんでした。
慶長20(1615)年、千姫19歳の時に大坂夏の陣で大坂城は落城し、義母の淀殿と夫・秀頼は自害してしまいます。
千姫は祖父・家康の命により救出され、江戸城へ戻りました。
その1年後、彼女には新たな縁談が持ち上がります。
桑名藩主・本多忠政(本多忠勝の長男)の嫡男・忠刻と結婚することになったのです。結婚の翌年には、本多家が姫路に移封されたことに伴い、姫路に移りました。そこでの結婚生活は幸せで、千姫と忠刻の間には長女・勝姫と長男・幸千代が生まれました。
ところが、幸千代はわずか3歳で亡くなってしまいます。すると、続けて忠刻が31歳で亡くなり、姑や実母までもがこの世を去ってしまいました。
夫も世継ぎの息子も失った千姫は、娘を連れて江戸城へ帰り、出家して天樹院と号し静かな生活に入ることとなりました。その後は甥の家光の息子・綱重の養母となったり、鎌倉の東慶寺の伽藍再建などに尽力したりしつつ余生を過ごし、寛永20(1643)年に70歳で亡くなりました。
千姫とはどんな女性だったのか?
千姫は気立ても良くとても優しい女性で、その美貌は祖母・お市の方をしのばせるものだったそうです。2番目の夫・忠刻も美男子だったため、美男美女カップルとしてもてはやされました。
政略結婚だった秀頼との仲も良く、鬢削という女性の髪を揃える聖人の儀式を秀頼が千姫にしてあげたという侍女の証言も残っています。また、秀頼が側室との間にもうけた娘・天秀尼を大坂夏の陣の後に助命嘆願し、自分の養女として育てたのでした。天秀尼は後に東慶寺に入りますが、これもあって千姫が伽藍再建に協力したのでしょう。
落城間近の大坂城から救い出すよう命じたように、家康にとって千姫は可愛い孫娘でした。秀忠も彼女を可愛がり、弟の家光もまた彼女を慕いました。息子を養子として預けるほどですから、その信頼の深さがうかがえますね。
姫路で夫の忠刻と死に別れた彼女が江戸に戻る際は、多くの家臣や城下の人々が彼女との別れを惜しんだといいますし、千姫は容姿も性格も申し分のない素晴らしい女性だったと推測できます。
千姫強奪!?千姫事件とは?
大坂城落城の際、千姫は豊臣方の武将によって徳川方の坂崎直盛の陣へ送り届けられたそうです。直盛は千姫を秀忠の所へ連れて行き、その功を称えられたといいます。
家康は、未亡人となった千姫の次の婿を探すように直盛に依頼し、彼はある公家との縁談をまとめます。しかしそこで本多忠刻との縁談が持ち上がってしまい、結果として直盛はメンツをつぶされる形となってしまいました。
このため、直盛は千姫の輿入れの行列を襲い奪還する計画を立てたのです。
しかし事は露見し、直盛は結果として自害という形になりました。
ちなみに他にも、家康が千姫を助けた者に彼女を嫁がせると約束したのに、戦火の中彼女を助けた直盛が火傷を負っていたため、それを見た彼女が拒絶したとか色々な説もあります。
彼女の母・江や伯母の淀殿が戦に翻弄されたように、千姫の生涯にも戦が付いて回りました。しかし彼女の心の優しさが、後の世を静かに生き抜くカギとなったのかもしれませんね。
(xiao)
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