徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ)。清水徳川家第6代当主であり、のちに水戸藩第11代藩主となった彼は、幕末期に渋沢栄一らとともにパリ万国博覧会を訪問。その後はパリ留学を経て帰国し、明治の日本に貢献しました。しかし、その活躍はあまり知られていないかもしれません。昭武はどのような人物だったのでしょうか?
今回は、昭武のうまれから家督相続まで、訪欧使節団としてのパリ万博訪問、明治時代に入ってからの動向、昭武にまつわる逸話などについてご紹介します。
うまれから家督相続まで
水戸藩最後の藩主となった昭武。その幼少期から家督相続までの経緯を振り返ります。
徳川斉昭の18男として誕生
昭武は、嘉永6年(1853)に第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男として誕生しました。母は側室の睦子で、第10代水戸藩主・徳川慶篤や、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたります。江戸駒込の水戸藩中屋敷でうまれ、一時期は水戸で養育されましたが、幕末の動乱により再度江戸に入りました。京都にいる兄・松平昭訓の看病の名目で上洛した後は、水戸藩主となった兄・慶篤を補佐しながら禁門の変や天狗党の乱で一軍の将として出陣するなど、幼年ながら佐幕活動に奔走しました。
清水徳川家を相続する
昭武がうまれた当時の日本は、諸外国から開国を迫られ、国際化や近代化をめぐって国内でも激しい対立が起こっていました。徳川御三家の一つ・水戸徳川家にうまれた昭武も、その流れに飲み込まれていきます。第14代将軍・徳川家茂が亡くなった後、異母兄・慶喜が第15代将軍に就任。20年にわたって当主不在だった清水徳川家を相続し第6代当主に就任した昭武は、慶喜の代理としてパリ万国博覧会への派遣を命じられました。
訪欧使節団とパリ万国博覧会
幕末期に海外に渡った昭武は、パリ万博後も留学を続けます。しかし、その後に待っていたのは幕府滅亡という衝撃の展開でした。
将軍・慶喜の名代としてフランスへ
慶応3年(1867)の年初、昭武は使節団を率いて渡仏します。使節団の責任者は、若年寄格・勘定奉行格・外国奉行を務めていた向山一履で、昭武の小姓のほか、渡欧経験がある者、医師、通訳、翻訳者らが同行しました。また会計係の渋沢栄一、世話係のフランス領事レオン・デュリーも同行し、会津藩や播磨山崎藩の留学生、パリ万博に出品する商人・清水卯三郎一行の姿もあったといいます。一行を乗せたフランス蒸気船アルフェー号は約50日かけてフランスに到着。昭武はナポレオン3世に謁見してパリ万国博覧会を訪問しました。
万国博覧会では各国の産業・伝統工芸などが披露され、使節団の渋沢らはヨーロッパの最新知識を得て明治維新後の近代化に大きく貢献します。初出展の日本からは浮世絵・青銅器・磁器などが展示され、これは後に本格化する「ジャポニズム」の契機となりました。万博訪問後、昭武は幕府代表として欧州各国を歴訪。各国の国王や皇帝らに謁見して国際交流を深めました。
留学中に幕府が滅亡!?
その後の昭武はパリで留学生活を送りますが、慶応4年(1868)1月、将軍・慶喜が大政奉還したという連絡を受け、使節団は微妙な立場になります。フランスの新聞に戊辰戦争が掲載され、一部の随行者が帰国。残留した昭武ら数名のもとに新政府から帰国要請が届いたものの、4月の段階では慶喜から留学継続を促す手紙が送られていました。しかし、昭武一行は滞在費や帰国費について心配しており、渋沢は実家に援助を頼んでいます。このとき日本では、すでに江戸が新政府に明け渡され、上野戦争の最中でした。
命令により日本に帰国
5月、新政府からフランスに帰国命令書が届きます。留学続行を勧めるフランスの関係者もいましたが、新政府に逆らえば徳川家の印象が悪くなることや、今後の滞在費用が問題になるだろうことから帰国を決意。水戸藩主・慶篤が4月に死去したことから、藩の政情安定のために昭武が次期藩主に指名されました。こうして昭武は、9月4日、イギリス船・ペリューズ号でフランスのマルセイユを出航。11月3日に神奈川に到着しました。
明治時代の昭武
幕府の滅亡により日本に帰国した昭武は、その後の明治期をどのように過ごしたのでしょうか?
水戸藩主から水戸藩知事へ
帰国翌年の明治2年(1869)、昭武は水戸徳川家を相続して水戸藩主に就任し、同年の版籍奉還後は水戸藩知事となりました。明治4年(1871)7月14日に断行された廃藩置県後は藩知事を失職し、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)で暮らしたといいます。明治7年(1875)には陸軍少尉となり、陸軍戸山学校で軍事教養の教官に就任。翌年には中院通富の娘・盛子と結婚しました。
再度、フランスに留学する
明治9年(1876)、フィラデルフィア万国博覧会が開催されると、昭武は御用掛となりアメリカに渡ります。その後、兄弟の土屋挙直、松平喜徳とともに再びフランスに留学。明治13年(1880)には留学をやめ、同じく留学中の甥・徳川篤敬(長兄・慶篤の長男)とともに欧州旅行をしました。その後はロンドンに半年滞在し、明治14年(1881)6月に帰国。妻とは別居期間が続きましたが、明治16年(1883)1月に長女・徳川昭子をもうけています。しかし、産後の経過が悪かったことから、妻は翌月に死去しました。
松戸・戸定邸で隠居
妻の死後、昭武は甥・篤敬に水戸徳川家の家督を譲り、松戸城跡に戸定邸(とじょうてい)を新築して母とともに隠居しました。昭武は麝香間祗候(じゃこうのましこう)という公職についていたため、定期的に皇居に行く必要がありましたが、自転車、園芸、釣りなど多くの趣味を楽しみ、慶喜と一緒に写真撮影などに出かけていたといいます。写真は自ら現像を手がけるほどで、西洋式庭園など造園にも注力しました。明治31年(1898)篤敬が死去すると、遺児・圀順が水戸徳川家当主に就任し、昭武が後見人となります。そして明治43年(1910)7月3日、昭武は東京・小梅邸にて死去しました。
昭武にまつわる逸話
昭武にはさまざまなエピソードが残されています。彼にまつわる逸話をいくつかご紹介します。
日本人で初めてココアを飲んだ!
昭武は1度目のパリ留学中に日記をつけており、『徳川昭武幕末滞欧日記』としてまとめられました。その中には「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」との一文があり、これは日本人で初めてココアを飲んだ記録とされています。
アイスクリームを作っていた!?
パリ万博訪問時、昭武は船内で当時まだ珍しかったアイスクリームを食べており、帰国後にレシピを慶喜や自分の子供たちに教えていたそうです。慶喜も柏餅やいちごジャムを手作りしていたそうで、兄弟ともに食に関心が深かったことがうかがえます。
実業家・渋沢栄一の人生を変えた
日本近代資本主義の父ともいわれる渋沢は、パリ万博開催に伴うフランス随行体験が多くの業績を残せた理由の一つと回想しています。もし昭武が将軍名代としてパリ万博を訪問しなければ、渋沢の活躍はなかったかもしれません。昭武は渋沢が貴重な体験をするキッカケとなった人物といえるでしょう。
次期将軍だった可能性も……
最後の将軍となった慶喜は、自分の後継者を選ぶなら昭武しかいないと考えていたそうです。慶喜が将軍名代として昭武をパリ万博に派遣したのは、最新知識を身につけ次世代の指導者としてふさわしい人間になることを期待したからかもしれません。もし幕府が続いていたら、昭武は将軍になっていた可能性もあったでしょう。
明治の日本を陰で支えた
昭武のパリ万博訪問には、幕府の権威を外国に示すという外交上の理由もあったと考えられています。最後の将軍・慶喜に比べ影が薄い昭武ですが、帰国後も外交に関わる御用掛となったり明治天皇に奉仕したりと、影ながら日本を支えた人物といえるでしょう。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、板垣李光人さんが演じる昭武にも注目ですね。
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