幕末。
260余年続いた江戸幕府の崩壊に併せ「日本人とはなにか」に日本全国のサムライが向き合わなければならない時代でした。
佐幕か倒幕かという二元的な選択のなか、あくまでも自らの藩主への忠誠心から、どちらにも属さずに戦おうとした一人の男がいました。
その男の名は河井継之助。
越後長岡藩牧野家のなかでも無名の存在、しかも120石取りという小さな家に生まれた彼は、幕末の風雲期にこつ然と登場します。
緩みきっていた藩の財政を合理的かつ豪快に立て直し、戊辰戦争が始まってからも明治政府への恭順か抗戦かという藩論を抑えながら、あくまでも越後藩の自主独立を主張。
必死の思いで越後領内に進軍して来た新政府軍との交渉に臨むも決裂、北越戦争で新政府軍を相手に、当時日本に三丁あったうちの一丁を買い付けた「ガトリング砲」を武器に大奮戦の末破れその一生を終えたという烈士です。享年41歳。なんとも早い。
映画「ラストサムライ」で渡辺謙さんとトムクルーズがこのガトリング砲に向かって突っ込んでいくシーンがありますが、この河合この生き様こそ「ラストサムライ」と力説する人もいるほどです。
しかし残された彼の記録などを見るに、彼は決して好戦派ではなく、最後まで戦争を避ける為に尽力したり、民を大事にするという民主主義的思想の持ち主だったようです。残された彼の言葉が彼の生家である長岡駅前に建てられた「河合継之助記念館」オフィシャルサイトのなかにあります。彼の人柄が見受けられるカッコよすぎる言葉です。
「民は国の本(もと) 吏は民の雇(やとい)」
〜民が国の本であり、役人は民の雇いである。
私も司馬遼太郎氏の「峠」を読んで、一気に彼のファンになってしまいました。
「弱きを助け、強きをくじく」人情の人であり、かつ頭もよく、ケンカもうまい。
まだ読まれていない方はぜひぜひ読んでいただきたいです!!
幕末の激動のときに、彼のような気概と能力をもったサムライが、望まぬ戦いに巻き込まれてどれだけ散っていったことでしょう。
歴史とは返す返す戦いの記録でもあると実感しながらも、殺し合い以外で新しい希望を創ることができることを望まずにはいられません。
彼のお墓は生まれ故郷である新潟県長岡市と最期の地会津との二カ所に分けて奉られています。
長岡駅からすぐの栄涼寺の墓前に行ってお墓参りしたのはもう10年以上前。もう一度行ってみようかなあ。
(副編集長Y)
参照元
「河井継之助記念館」オフィシャルサイト
「河合継之助」wikipedia
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