【三国志:周瑜】諸葛亮のライバル?呉に尽くした名将の魅力に迫る!

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【三国志:周瑜】諸葛亮のライバル?呉に尽くした名将の魅力に迫る!

中国史『三国志』のなかでも才能あふれる人物として知られる周瑜(しゅうゆ)。彼は頭脳明晰なことから、小説『三国志演義』において諸葛亮のライバル的存在として描かれています。また、映画『レッドクリフ』では主役として登場するなど、『三国志』ファンの方には欠かせない人物といえるでしょう。
今回は、周瑜のうまれから孫策に仕えるまでの経緯、孫権のもとでの活躍、荊州争奪と周瑜の最期、その魅力などについてご紹介します。

 

うまれから孫策に仕えるまで

周瑜の出自はどのようなものだったのでしょうか?うまれから孫策に仕えるまでを振り返ります。

名家の出身だった周瑜

周瑜は揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の出身で、朝廷の大臣などを輩出した名家・周家にうまれました。周囲からは「周郎(周の若様)」と呼ばれていたようです。彼はのちに孫策と交流を深めますが、これにはあるキッカケがありました。孫策の父・孫堅が反董卓連合軍に参加していたころ、孫策は江淮一帯で名声を得ており、その名を聞いた周瑜が孫策を訪ねたのです。同じ歳だった二人は意気投合し、中平6年(189)には周瑜の招きにより孫策が母や孫権ら弟とともに廬江郡舒県に移住。周瑜は大きな屋敷を孫策一家に譲り、家族同然の付き合いをしたといいます。

孫策の誘いにより出陣

周瑜と友情を深めた孫策

初平2年(191)孫堅が劉表との戦いで死去すると、軍は主君の袁術軍に吸収されました。袁術についた孫策は、孫堅軍の返還を求め、有力武将たちを取り戻すことに成功します。その後、袁術軍の一角として頭角を現しますが、才覚を危険視され戦功を認めてもらえませんでした。孫策は独立を考え、興平元年(194)領土獲得のため江東へと進出。手紙で誘いを受けた周瑜はこれに協力し、孫策軍は勢力を増していきました。袁術は周瑜を配下に引き入れようとしますが、周瑜は袁術に見切りをつけ孫策とともに戦うことを決意します。孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将の地位のほか、兵士・騎馬・楽隊・住居まで与えるなど厚遇しました。

孫権のもとでの活躍

孫策の死後、周瑜は孫権のもとで活躍します。周瑜はどのような活躍をしたのでしょうか?

後継者・孫権を補佐する

建安5年(200)袁術から独立し大躍進を果たした孫策が急死します。これにより孫策の弟・孫権が後継者となりますが、諸将のなかには孫権を軽んずる者もおり、周瑜は率先して臣下の礼をとって規範を示しました。孫権を支えて呉を取り仕切るようになった周瑜は、勢いを増す魏の曹操に対し一貫して対抗姿勢を貫きます。曹操が孫権に人質を送るよう命令した際には、人質は送らず情勢を見極めるべきだと進言。また、曹操が北方平定後に南征に乗り出し、劉備を敗走させて孫権に狙いを定めたときには、抗戦を主張し孫権を説得しました。

赤壁の戦いで勝利!

画家ウェン・ボレンによる赤壁の絵です。

周瑜の説得により曹操との抗戦を決意した孫権は、曹操から逃れてきた劉備と合流。そして、かの有名な赤壁の戦いが始まります。曹操軍は周瑜の予測通り疫病にかかっており、一度の交戦で長江北岸に引きあげました。さらに周瑜は、部将・黄蓋(こうがい)の案を採用し、曹操軍の船を焼き討ちすることを計画。降伏するふりをして曹操軍の船団に近づくと、火を放って岸辺の陣営を焼き尽くします。陸では周瑜に随行して追撃した孫権軍が曹操軍を撃破しました。こうして甚大な被害に遭った曹操軍は敗退。曹操は曹仁らを江陵の守備に残し、北方へ撤退しました。

曹操軍を追撃する

その後、孫権は江陵に目をつけ、周瑜は武将・甘寧(かんねい)を進撃させて魏軍の部隊を分断します。陣を構えて江陵攻撃を続けた周瑜は、決戦の際に流れ矢を受け、右わき腹に重傷を負いました。しかし、周瑜はそのまま戦いを続行し、魏軍側は大量の犠牲者を出して敗退。こうして約1年にわたる攻防の末、ついに荊州南郡を攻略します。この功績から周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたりました。

荊州争奪と周瑜の最期

孫策・孫権のもとで才能を発揮した周瑜。その最期はどのようなものだったのでしょうか?

劉備を危険視した周瑜

のちに蜀漢の初代皇帝となった劉備

その後、周瑜は荊州の長江南岸を劉備に分け与え、劉備は軍を駐屯させました。民を養うのにこれだけでは土地が足りないと考えた劉備は、荊州の数郡を借りることを孫権に直接頼みます。これを警戒した周瑜は、劉備を監禁するよう孫権に進言。さらに劉備と関羽・張飛を分断し、自ら両将を率いることを献策しました。しかし、孫権は曹操の脅威にさらされている今は多くの力が必要だと考え、提案を却下します。

益州奪取を画策するも……

周瑜は、今ならば赤壁の戦いで疲れている曹操軍は動けないだろうと判断し、この隙に益州を占領しようと考えました。孫権の同意も得た周瑜でしたが、遠征の途上で急逝してしまいます。周瑜の死を知った孫権は深く悲しみ、柩を出迎え葬儀費用もすべて負担しました。また、のちに呉を建国して初代皇帝に即位した際には、「周瑜がいなければ皇帝になれなかった」と嘆いたそうです。

周瑜の魅力とは?

主君に尽くし最後まで戦い続けた周瑜。そんな彼の魅力を4つご紹介します。

敵将をも魅了した才能

周瑜は知略・武略に優れた名将で、人心掌握に長けていたといわれています。その才能ゆえ、多くの武将から畏怖されていたのだとか。曹操は何度も使者を送って周瑜を引き抜こうとし、劉備は虚言により孫権と周瑜を仲違いさせようとしましたが、いずれも失敗しています。古参武将の程普(ていふ)からは邪険に扱われていたものの、常に膝を折って謙そんし続けたため、さすがの程普も感服し「周瑜はどんな人物でも酔わせてしまう」と評価したそうです。

孫策との熱い友情

周瑜は孫権から深く信頼されており、たびたび送られた衣服は100着を超えていました。これほどの厚遇を受けた武将はほかにいなかったといわれています。もともと孫策と周瑜は君臣関係を超えた友情で結ばれており、出身地も生年も同じで迎えた妻も姉妹でした。こうした関係が孫権への忠心にもつながったと考えられるでしょう。

「美周郎」と呼ばれた容姿

『三国志』の創作作品では、武将が美化されることも少なくありません。それにより人気を博すことも多いですが、周瑜の場合は正真正銘の美男子だったようです。『正史』には「姿貌有り」という記載があり、「美周郎(周家の美男子)」という通称もついていたのだとか。頭脳明晰なだけでなく容姿端麗。これも周瑜の魅力の1つといえるでしょう。

『三国志演義』では諸葛亮と対立

『三国志演義』での周瑜は諸葛亮と対立しており、感情的で狭量な人物として描かれています。特に、諸葛亮からの手紙を読み、怒りのあまり憤死するという最期は印象的でしょう。これらの脚色は諸葛亮を引き立てるための演出で、10万本の矢を集めるエピソードや荊州争奪戦もフィクションです。実際の周瑜は寛大で優れた武将だったといえそうです。

非凡な才能をもつ武将だった

孫策と君臣関係を超えた友情を築いた周瑜は、その後も孫権に仕え、最後まで呉のために尽くしました。『三国志演義』では怒りっぽい人物として描かれる周瑜ですが、実際は非の打ちどころがない人物だったようです。多くの魅力をもつ武将なので、彼に憧れるファンも多いのではないでしょうか。
志半ばで、若くしてこの世を去った周瑜。もし長生きしていたら、呉の運命はまた違ったものになったかもしれませんね。

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