【渋沢平九郎とは?】22歳で戊辰戦争に散った、渋沢栄一の「息子」の壮絶な生きざま

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渋沢平九郎(1847~1868)。おそらく、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、初めてこの人を知ったという方も多いのではないだろうか?武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市)の尾高家に生まれ、渋沢栄一の養子となるも、22歳という若さで戊辰戦争に散った人物だ。彼のあまりに儚い生涯を、今回は渋沢栄一の伝記(渋沢栄一伝記資料)も参照しつつ、今一度おさらいしてみたいと思う。

渋沢が評価していた剣の腕前

弘化4年(1847)11月7日、下手計(しもてばか)村の名主・尾高家に生まれた平九郎は、長兄の尾高惇忠(じゅんちゅう)より17歳年下、その従弟の渋沢栄一より7歳年下であった。尾高家は村名主を務める一方、名字帯刀を許された家柄だった。長兄・惇忠は自宅に私塾を設置して、その優れた学識で若者たちを教育していた。平九郎は、兄の長七郎たちとともに剣術に打ち込み、めきめきと上達したという。

「撃剣は大変勝れて、私等と一処に稽古していた頃は15~16才であったが、年若にしては余程強かった」と、渋沢栄一は、平九郎の腕前を評価していた。いっぽうで「平九郎の人となりにおいては、風采、容貌ともに秀でて誠に気立てがよかった。然し、磊落(らいらく)とかいった点はなく、深い思慮の念を欠いて居った。」とも言っている。

そのような剣術の稽古に打ち込んでいたさなか、安政5年(1858)に平九郎の姉・千代が栄一に嫁いだ。これによって、平九郎は栄一の義弟となった。
文久3(1863)年、長兄・惇忠や従兄の渋沢喜作、栄一とともに平九郎は尊皇攘夷運動に参加。しかし、計画は未遂のうちに頓挫。栄一と喜作は京へ逃げ、惇忠や平九郎は一時捕縛されてしまったが、程なく釈放されている。

渋沢の渡欧にともない、「見立て養子」になる

常盤橋公園にある渋沢栄一像(東京都千代田区)

それから数年間は、比較的平穏に過ぎた。慶応3年(1867)1月、栄一が、徳川昭武の随員として、フランスへ渡航することになり、21歳の平九郎を「見立て養子」とした。
「私が仏蘭西(ふらんす)に行くについては、そのころの法律の規定によって相続者を定めなければならなかった。いわゆる『嗣無ければ国除かる』で、一家の相続者が無ければ其家が断絶する事になって居った。」というわけである。

「大人洋行なし給ふにつき其頃の掟にて。平九郎君を見立養子と云ふに定め給ひけり。ことし秋の頃、江戸に出で白銀町のほとりに家を借りて住ませ給ひけり。」
これは栄一・千代夫妻の長女、歌子の著書(はゝその落葉)にある記述で、栄一の跡継ぎとなった平九郎は、江戸の白銀町(日本橋)の借家に住んでいたという。

だが、それから間もない10月、大政奉還の一報が届く。平九郎は兄・惇忠のもとへ戻って、先行きを相談した。ヨーロッパにいる栄一とも書簡を交わしている。文中では、幕府なきあとの日本の先行きが見えないことへの不安や、新政府軍の江戸侵攻など緊迫した情勢を伝えた。栄一も、平九郎を心配する文面の返書を出している。

兄たちに従って、彰義隊から振武軍へ

上野公園内にある彰義隊の墓

時の流れはあまりに速かった。翌慶応4年(1868)2月、大坂城を退去した徳川慶喜が恭順の意を示し、上野寛永寺で謹慎生活に入ると、旧幕臣や一橋家の家臣らは「彰義隊」を結成。そのトップに選ばれたのは、京都での栄一の相棒で、平九郎の従兄でもある渋沢喜作(成一郎)。当然というべきか、平九郎も兄の惇忠とともに彰義隊に入った。

「振武軍とは藍香(惇忠)翁の命名で、喜作が之を率いて兵を挙げたのである。藍香翁は平九郎にとっては長兄であるし、平九郎は殆んど父同様に事へ親しんで居ったし、喜作に対しても目上の親戚として尊敬の念を持っていたから、振武軍に加担したものと思はれる。」(渋沢の談)

4月11日、新政府軍の侵攻を受けて江戸城は無血開城。慶喜は寛永寺を出て水戸へ退去するや、喜作と惇忠、平九郎らは彰義隊を離脱して、別隊の「振武軍」を結成する。5月15日、上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗れ壊滅。救援に赴く間もなかった。23日、新政府軍は振武軍の本営、飯能(はんのう)に迫る。惇忠や平九郎らは懸命に戦うも、数の不利、装備の違いに圧倒され、昼前に振武軍は壊滅した。

惇忠らとはぐれた平九郎は、飯能と越生の境にある顔振峠まで落ち延びた。夕刻、黒山村(現・越生町黒山)に下ったところで新政府方の斥候3名と遭遇。広島藩・神機隊(しんきたい)の面々であったという。平九郎は疲れた身体を鞭打って、得意の剣技をもって小刀で応戦した。その顛末を、栄一も人づてに聞いて伝記に語り残している。

「平九郎も此の度の騒動に就て、其実兄の尾高惇忠や同姓の喜作などに随従して、諸々方々の戦争に出合ひ、遂に飯能宿近傍の黒山といふ所で討死をしたといふ話で、実に見るもの聞くもの、皆断腸の種ねならざるはなしといふ有様であった」

「平九郎は越生から秩父へ通る黒山通りを落ち延びんとした。その時官軍に誰何されて、之れと戦ひ敵を斬り伏せたが、股に鉄砲の丸を受けて、身体の自由を失つたので、官軍に捕へられるよりはと覚悟して腹を切った。私は其後そこへ行って見たが、何でも川があって其辺りに石がある。其処が平九郎の切腹の場所だと聞いた。」

生涯、亡きわが養子を忘れなかった栄一

旧渋沢邸「中の家」にある渋沢平九郎追懐碑(埼玉県深谷市血洗島)

明治6年(1873)、渋沢栄一は平九郎の首と亡骸を探して収容させ、地元の古刹・全洞院(埼玉県入間郡越生町黒山)に平九郎の墓石を建てて供養した。明治32年と明治45年に、墓参りをしたり、寛永寺で法会を行なった。
少し読みにくいが、明治45年(1912)に、82歳の栄一が「平九郎最期の地」黒山を訪問した日の日記を引用させていただこう。

四月十四日 晴 暖
午前六時前起床、直ニ朝飧ヲ食ス、此日ハ越生町ニ開催セル各銀行ノ集会ニ出席スル為メ、七時王子発ノ汽車ニテ九時川越ニ抵リ、夫ヨリ人車ニテ十二時越生町ニ抵ル、地方人士多ク来リ迎フ、着後先ツ越生銀行ノ二階ニ小憩シ、午飧後、同地ノ小学校ニ於テ一場ノ演説ヲ為ス来会者堂ニ満ツ、畢テ黒山ニ抵ル、地方人多ク同行ス、黒山ニ抵リ、寺院ニ休息シ、平九郎ノ遺跡ヲ探リ、五時越生ニ帰ル、一旅亭ニ開催スル歓迎会ニ出席ス、来会者凡弐百名斗リ頗ル盛会ナリ、席上一場ノ挨拶ヲ為ス、畢テ樋口某ノ家ニ一宿ス、夜地方人多ク来リ話ス、越生銀行頭取等終始附随シテ款待ニ尽力セリ(渋沢栄一 日記 明治四五年)

飯能戦争のさいに茶屋に置いて去った大刀や、討死の際に振るった小刀は、のちに栄一のもとに返還されている。とくに小刀は、元・広島県士族で神機隊の幹部だった川合鱗三が、平九郎の奮闘を見て密かに所持していたものであった。栄一の没後、月山貞一作の愛刀も渋沢家に返還された。栄一と再会できなかった無念が、刀に乗り移ったように思われる。栄一もまた、儚く散った、わが養子のことを生涯忘れることはなかった。

(文・上永哲矢/歴史随筆家)

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