後に鎌倉幕府を設立した源頼朝は、平家打倒に立ち上がるまでは伊豆・蛭ヶ小島で流刑の身となっていました。そんな頼朝を流刑時代から支え続けていた人物が安達盛長です。令和4年(2022)放送予定の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では野添義弘さんが演じる盛長ですが、どのように頼朝を支えていったのでしょうか。今回は、頼朝とのつながりや十三人の合議制に選ばれた後の行動などに触れて、盛長をご紹介します。
出生について
盛長の出生については諸説ありますが、名門の家系ではないという見方が有力です。
出自は定かでない
盛長は保延元年(1135)に誕生しました。日本初期の系図集である『尊卑分脈』によると、盛長は藤原北家魚名流の小野田兼広の子とされています。しかし、盛長以前の家計は系図によって異なっており、実際のところ出自や出生は定かでないというのが現状です。
名門の家系ではない?
流人の身となり家来が持てなくなった頼朝に付き従い、鎌倉幕府樹立後も尽力した盛長は頼朝の側近中の側近といってもよい人物です。しかし、不思議なことに盛長は生涯を通して無官のままでした。このことから、盛長は鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖でありながらも、名門の家系ではないとされています。盛長が兼広の子であるとすれば、小野田氏は流人の世話係を務める家柄のため、名門の家系ではないという説は成り立ちます。
頼朝との縁
生涯に渡り頼朝に仕えた盛長ですが、頼朝との縁とはどのようなものだったのでしょうか。
盛長の妻は頼朝の乳母の娘だった
盛長と頼朝の縁といえば頼朝の乳母であった比企尼の存在が挙げられます。盛長の妻である丹後内侍は比企尼の長女です。比企尼は14歳で伊豆国の蛭ヶ小島に流刑となった頼朝へ約20年間仕送りを続け、盛長を含めた娘婿たちに頼朝への奉仕を命じていたといわれています。仮に盛長が流人の世話係を務める家柄の者でなかったとしても、このような縁から流人時代の頼朝を支えたといえるでしょう。
流人時代の頼朝
平治の乱で源義朝が敗死したことにより、嫡男の頼朝は14歳で伊豆国に流罪となりました。蛭ヶ小島における流人時代の頼朝の史料は少ないのですが、日々読経を怠らずに、亡き父の義朝をはじめ源氏一門を弔いながら一人の地方武士として暮らしていたといわれています。
盛長は、頼朝のために京の様子や情勢を集める役割を担っていました。妻の丹後内侍は京の二条院に女房(女官)として仕え、「無双の歌人」として知られた人物です。そのため盛長も京に知人が多く、より詳しい京の現状を知ることができたとみられています。
恋の橋渡し?
頼朝といえば、後に「尼将軍」と呼ばれ数々のエピソードを持つ北条政子を妻に持ったことでも有名です。頼朝と政子の婚姻には諸説ありますが、実は2人の仲を取り持ったのが盛長だったという説もあります。
もともと頼朝は、政子の妹に恋文を送るはずでした。しかし、文を託された盛長は「主には政子が相応しい」と勝手に宛名を書き換えて届けてしまったのです。かくして頼朝と政子は結ばれたわけですが、勝手に宛名を書き換えた盛長とそれを許した頼朝、両者の親しい間柄が感じられます。
側近としての活躍
盛長は平家打倒に向け挙兵した頼朝の側近として、様々な場面で活躍していきます。
関東武士を取り込む
治承4年(1180)8月に頼朝が挙兵した際、盛長は使者として波多野氏や山内首藤氏など各地の関東武士を取り込む活躍をしました。山木館を襲撃し、伊豆目代の山木兼隆を討った頼朝がむかえた石橋山の戦い。この戦いで頼朝は敗北を喫し安房国へと逃れます。大庭景親が率いる平家方3000余騎が相手では、頼朝の300騎の手勢では成す術がなかったといえるでしょう。
頼朝と行動を共にした盛長は、下総国の大豪族である千葉常胤を説得し頼朝の味方にすることに成功します。常胤を手勢に加えて、2万騎を率いる上総広常も参陣し、頼朝軍は大軍勢となりました。
役人の役割を担う
盛長は武人として戦場に出るよりも、役人を担うことで頼朝に貢献します。平家追討には従軍することなく国内公領の収税事務を管轄、鎌倉幕府の基盤整備や充実を図ることを任されています。元暦元年(1184)の頃から上野国の奉行人となり、文治5年(1189)の奥州合戦の後には陸奥国安達郡が与えられました。
頼朝の死後
頼朝の使者として活躍した盛長は、頼朝の死後はどのように動いたのでしょうか。頼朝亡き後の鎌倉幕府の経緯と共に振り返ります。
出家し蓮西と名乗る
正治元年(1199)1月に頼朝がこの世を去った後、盛長は出家し蓮西と名乗りました。頼朝は盛長の屋敷にしばしば訪れており、公務というよりは、私用で訪れ他愛もない話をする関係であったようです。盛長の妻が病となったときには、密かに訪れて見舞い、病回復のための願掛けをおこなったというエピソードも残されています。盛長が出家をしたのも、古くからの主君であった頼朝が亡くなり、自分の役割を終えたと感じたからだったのかもしれません。
十三人の合議制の一人となる
出家した盛長でしたが、頼朝の死後に設置された十三人の合議制の一人として名を連ねています。十三人の合議制は、有力な御家人である宿老で構成された集団指導体制です。一般的には、鎌倉殿として頼朝の地位を引き継いだ二代将軍・源頼家の独裁を抑制する目的で設置されたといわれています。しかしながら、独裁を抑制するだけでなく頼家を補佐する役割も担っており、盛長は頼朝亡き後の鎌倉幕府の先行きを案じて、幕政に身を置いたのではないでしょうか。
頼朝の死後に起きた幕府内部の権力闘争である梶原景時の変では、結城朝光が頼朝を思い呟いた言葉を、景時が歪曲して将軍へ伝えたことで、朝光は窮地に立たされました。これを救うべく、盛長を含む66人の御家人が糾弾の連判状を作り、景時を追放しました。幕府内を乱す景時を盛長は許せなかったのでしょう。盛長は強硬派ともいえる一面をみせました。
頼朝が心を許した側近中の側近
頼朝が家来を持つことを許されなかった時代からそばに仕え、不遇な時代を共に過ごした盛長は、頼朝にとって心を許せる数少ない人物であったはずです。66歳でこの世を去った盛長の後を継いだ嫡男の景盛も、鎌倉幕府を支えていきました。頼家とは確執はあったものの、3代将軍・源実朝や政子からは信頼を寄せられています。安達一族は源氏から北条氏へと時勢が移った後も信頼され、承久の乱では政子の演説を代読、景盛の娘は執権・北条泰時の長男・北条時氏へと嫁いでいます。
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