源頼朝に先駆けて平家追討で名をあげた木曽義仲(きそよしなか/源義仲)。しかし彼は、最終的に同じ源氏の一族である頼朝に討たれました。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、青木崇高さんが義仲役を演じます。一時期は朝廷から認められて地位を得た義仲ですが、失脚にはどのような背景があったのでしょうか?
今回は、義仲の生い立ち、源氏の挙兵と平家の動向、入京後の義仲の働き、頼朝との対立と最期などについてご紹介します。
木曽義仲の生い立ち
義仲の前半生についてはほとんど史料がありませんが、伝承などから義仲の生い立ちを紐解いてみましょう。
源義賢の次男:駒王丸として誕生
義仲は、久寿元年(1154)に河内源氏の一門である源義賢の次男としてうまれました。幼名・駒王丸。出生地は武蔵国の大蔵館とされており、義賢は武蔵国の最大勢力だった秩父重隆の娘をめとったものの、義仲の母・小枝御前(さえごぜん)は遊女だったともいわれています。
義賢には異母兄・源義朝がいましたが、2人の父・源為義は義賢に肩入れして棟梁にしたようです。『平家物語』『源平盛衰記』によれば、久寿2年(1155)8月、義賢が本家相続していることに不満を抱いた源義平(源義朝の子で頼朝の兄)が大蔵館を襲撃。この大蔵合戦で義賢が討たれ、2歳だった駒王丸は信濃国木曽谷に逃れます。その後、駒王丸は乳父・中原兼遠(なかはらのかねとう)の庇護下で育ちました。
義仲と巴御前
義仲といえば巴御前との関係が有名です。巴御前は兼遠の娘で、木曽四天王と呼ばれる樋口兼光や今井兼平の妹でもあります。色白で髪の長い美人だったといわれ、一軍の大将まで担う女武者として知られました。兼遠は義仲を養育していたことから、義仲と巴御前は幼馴染のような関係だったといえるでしょう。2人はやがて公私ともにパートナーとなり、戦乱の世を駆け抜けます。また、義仲の長男・源義高の母親は巴御前であるともいわれています。
源氏の挙兵と平家の動向
その後、義仲は平家打倒の挙兵により天下に名を知らしめます。義仲はどのような活躍をしたのでしょうか?
平家打倒の兵を挙げる
治承4年(1180)、以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨を発し、全国の源氏が蜂起します。義仲は小見(麻績)・会田の合戦で勝利したり北信の源氏方を救援したりと活躍し、信濃・依田城に籠るなどしたのちに北陸道へと進軍。寿永元年(1182)には、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示します。また、頼朝らの影響が届いていない北陸へと勢力を拡大していきました。
平維盛率いる平家軍を撃破!
寿永2年(1183)2月、頼朝に敗北した志田義広と、頼朝から追い払われた源行家が義仲のもとに身を寄せます。この2人の叔父を庇護したことから、頼朝と義仲の関係は悪化しました。こうして源氏内で対立が深まる一方、平家討伐でも激しい戦いが繰り広げられます。平維盛率いる平家軍は北陸に進軍して連戦連勝していましたが、木曽四天王の1人・今井兼平の奇襲により形勢が逆転。その後、義仲軍は倶利伽羅峠の戦いで約10万人の維盛軍を破り、篠原の戦いにも勝利し、破竹の勢いで京都を目指して進軍しました。
延暦寺との交渉、平家の都落ち
義仲軍は越前国、近江国へと入ったのち延暦寺と交渉し、平家に味方するか源氏に味方するかを迫ります。寿永2年(1183)7月には、義仲が東塔惣持院に城郭を構えました。源行家も伊賀方面から進攻し、ほかの源氏の武将も京都に迫るなど、情勢は源氏に有利に変化します。これにより都の防衛を断念した平家の棟梁・平宗盛は、安徳天皇とその異母弟・守貞親王を伴ったうえ、三種の神器を所持して西国へと都落ちしました。当初は後白河法皇も伴うつもりでしたが、事前に危機を察した法皇は比叡山に身を隠してやりすごします。
入京後の義仲の働き
その後、義仲は地位を得ますが、同時に多くの問題も抱えます。また、後白河法皇との関係は悪化していきました。
義仲、朝日将軍(旭将軍)に
比叡山に隠れていた後白河法皇は、義仲に同心した山本義経の子・錦部冠者義高に守られ京都に帰還します。義仲は翌日に入京し、行家とともに平家追討を命じられました。また、頼朝、義仲、行家にはそれぞれ位階と任国が与えられ、義仲はそれと同時に京中の治安維持を委ねられます。『平家物語』によれば、義仲は「朝日将軍(旭将軍)」という称号を得て源氏ゆかりの伊予守に任命されたといいます。一方の行家は備前守に任命され、義仲との差に不満を呈したそうです。
皇位継承問題への介入
平家から逃れた後白河法皇でしたが、朝廷にとって三種の神器を持ち去られたことは大きな痛手でした。三種の神器は皇位継承に必要なもので、朝廷は平家に返還を求めたものの交渉は決裂します。そのため後白河法皇は、京に残っていた高倉上皇の2人の皇子のいずれかを擁立しようとしました。このとき義仲は、以仁王の第1王子・北陸宮の即位を申し立てます。しかし、皇統を無視したこの提案は朝廷側には受け入れられず、以降、後白河法皇と義仲のあいだに溝ができました。
京の治安回復に失敗する
また、義仲は京都の治安回復にも失敗していました。このころの京都は飢饉(ききん)で食糧事情が悪化していましたが、そこに遠征で疲れきった武士らが居座り略奪行為が横行しました。京中守護軍は義仲の部下ではなく混成軍だったため、義仲が統制できなかったのも原因の1つだったといえるでしょう。治安悪化について責められ立場が悪化した義仲は、信用回復や兵糧確保のため平家追討で戦果を上げる必要がありました。こうして義仲は、法皇から与えられた剣を携え、腹心・樋口兼光を京都に残して播磨国へと出陣します。
後白河法皇と不和に……
義仲の出陣と入れ替わり、朝廷には頼朝からの申状が届きました。そこには、平家横領の神社仏寺領の本社への返還など、朝廷を喜ばせる内容が書かれていたといいます。これにより後白河法皇は頼朝を赦免し、東海道・東山道の諸国の事実上の支配権を与えました。
一方の義仲は平家軍に惨敗するなど苦戦していましたが、対立していた頼朝の弟・義経が数万の兵を率いて上洛したことを知り、驚いて戦いを切り上げます。そして、頼朝の上洛を促したことや頼朝に宣旨を下したことについて、後白河法皇に猛烈に抗議しました。
源頼朝との対立と最期
義仲と頼朝の対立は深まり、やがて義仲は強硬手段に出ます。しかし、これが義仲を追い込むことになりました。
頼朝方との決裂を覚悟
義経軍が迫ったことで、義仲はついに頼朝方と対決する覚悟を固めます。一方、後白河法皇は頼朝ら鎌倉勢を頼りにするよう方針を転換し、義仲を京都から追放しようと画策しました。延暦寺などの僧兵や義仲陣営の源氏らを味方にして優位に立った後白河法皇は、義仲に対し最後通告を行います。それは、平家追討の西下を命じ、院宣に背いて頼朝軍と戦うなら義仲の責任で行い、もし京都にとどまるのなら謀反と認めるという厳しいものでした。
後白河法皇を幽閉する
追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を捕らえて幽閉します。そして、前関白の松殿基房と連携し、基房の子である松殿師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立しました。義仲は院御厩別当に任命され、軍事の全権を掌握。こうして新しい政権を打ち立てた義仲は、頼朝追討の院庁下文を発給させ、官軍としての体裁を整えることに成功します。
粟津の戦いで散る
寿永3年(1184)1月、源範頼・義経軍が目前に迫り、義仲は戦いを余儀なくされました。しかし、すでに人望を失っていたため義仲に付き従う兵はおらず、そのうえ脱落者も多かったことから宇治川の戦いで大敗。この戦いでは、畠山重忠と巴御前が一騎討ちしたという逸話が残されています。敗走した義仲は兼平ら数名と落ち延びますが、粟津の戦いで顔面に矢を受け討ち死にしました。墓所は、滋賀県大津市の朝日山義仲寺にあります。
天下人となっていたかもしれない武将
倶利伽羅峠の戦いで約10万人の平家軍を破り、朝日将軍と称された木曽義仲。一時期は後白河法皇から信頼され、のちに傀儡政権まで樹立したことから、天下人となる可能性もあった武将だったといえるでしょう。しかし、源頼朝との対立で失脚し、大きな成功を掴むことなくこの世を去りました。
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