【泉秀樹の歴史を歩く】尼将軍・政子の生き方

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歴史作家・泉秀樹が歴史の現場を探訪取材し、独自の視線で人と事件を解析して真実に迫る「泉秀樹の歴史を歩く」(J:COMテレビで好評放送中)。

今回のテーマは、「尼将軍・政子の生き方」

日本でただひとり「尼将軍」と呼ばれた北条政子

二人の息子と孫まで失い実の父を追放し幕府執権体制を築き上げたその苛酷な生き方、非情と悲しみの生涯をたどる。

北条政子は伊豆の国・田方郡韮山(静岡県伊豆の国市)の小土豪のひとりであり在庁官人(地方官僚)であった北条時政の長女。母親は伊東祐親の娘だといわれる。

永暦元年(1160)3月、政子が4歳のときである。北条家のすぐ近くの韮山を流れる狩野川の中洲の一つである蛭ヶ小島に源頼朝という14歳の罪人が流されてきた。頼朝は蛭ヶ小島に配流されるまで京育ちで、それも中ランクの貴族の生活をしていた。それに頼朝は美男だから政子には文字通り輝くようなソフィスティケイト貴公子に映ったことだろう。政子は頼朝にすっかり惚れ込んだ。

政子は21歳のとき頼朝と結婚した。このころとしては婚期を逸した年齢で、美人ではなかったから情熱的だったというより焦りから勇敢になったのかもしれない。頼朝は31歳になっていた。治承元年(1177)のことである。

翌年には女児が生まれた。大姫である。その翌々年の治承4年(1180)4月27日、以仁王の令旨が届いた。平家打倒に立ち上がるか否か、頼朝は迷った。 が結局、頼朝は挙兵に踏み切った。

以仁王の令旨が届いてから4か月後の8月17日、まずすぐ近くの伊豆目代・山木兼隆を夜襲した。20から30騎の兵力である。山木兼隆を倒した頼朝は、つづく石橋山の合戦(神奈川県小田原市石橋)で大敗北を喫したものの、真鶴半島から房總へ逃げた。

房総に渡った頼朝は千葉氏などの協力を得て力をたくわえ、東国の武士を糾合し、上総から武蔵を経由し、鎌倉(神奈川県鎌倉市)に入ってここを拠点としながら平氏と対抗し、少しずつ追い詰めて覇権を確立していった。

寿永元年(1182)8月、待ちに待った男子が誕生し、万寿と名づけられた。後の頼家である。乳母に河越重頼の妻がついた。頼朝の乳母であった比企禅尼の娘だから、源家の2代にわたる乳母である。ここで政子の生んだ子供について触れておくと、政子は頼朝との間に二男二女をもうけた。

・治承元年(1177)長女・大姫
・寿永元年(1182)長男・頼家
・文治二年(1186)次女・三幡
・建久三年(1192)次男・実朝

これらの4人の子供たちの生涯は短く幸福であったとはいい難く、政子もまた頼朝に対する嫉妬に苦しんでいる。頼朝は好色であったというだけでなく武家の棟梁として一人でも多くの子供を残さなければならないこともあってほかにも何人かの女性と関わりを持ったためだ。正妻としてはあまり幸福な家庭生活を送ったとはいえないかもしれない。

建久10年(1199)正月、頼朝が53歳で死んだ。このとき政子は43歳。21歳で結婚したから22年間の結婚生活だったが、この間に政子は単なる主婦から政治的人間に大きく成長していた。

頼朝の死後、政子は落飾して「尼御台」と呼ばれていたがここから「尼将軍」へと変貌していった。政子は征夷大将軍・源頼朝という最高最大の権力者の妻。そして頼朝をそこまで出世させたのは実家の北条家であるという立場に立っていたことを再認識して政治的な人間に変貌していった。

父親の時政や弟の義時は陰に身をひそめ、最高権力者である政子を頼朝の未亡人であり、頼朝の代理人であるという表の立場に立てて事にあたった。北条氏としてこういうことをやるのだというのではまずいので政子を前面に立てたほうが権威があったということだろう。

幕府の実力者である梶原景時を追放し、北条氏にとってかわろうとする比企一族と頼家の子を殺し、さらには我が子の頼家、そして実朝の暗殺を黙認した。2人の子供の暗殺の謀議に加わっていなかったとしても、暗殺が行われることは知っていた。

知っていて暗殺を黙認したということで、これはただみずから手を下さなかったというだけであり、実質的には暗殺者の一人であったとはいえないだろうか。まさに人でなしの冷酷非情な所業であり、振り返れば死屍累々という人生である。

元久2年(1205)には畠山重忠を謀殺し、父親である時政の後妻・牧の方の女婿・平賀朝雅を倒し、つづいて父・時政をも鎌倉から韮山へ追放した。さらに頼朝がまだ若いころから苦楽をともにした和田義盛を倒した。

こうして政子は多種多様な陰謀の決断と実行にたくみに関与しながら弟の義時とともに北条独裁執権体制を確立していった。

承久3年(1221)5月、承久の乱が起きたときも、みごとな対応を見せた。当然のことながら、朝廷に向かって弓を引くことに関東の御家人たちは迷い、動揺した。が、政子はみごとな演説で人心をまとめた。承久3年(1221)5月15日のことである。

「皆心を一にして奉るべし、これ最後の詞なり。大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東(幕府)を草創してより以降(中略)その思すでに山岳よりも高く、溟渤(海)よりも深し」とぶちあげた。

この演説から約1か月後、電撃的なみごとな勝利をあげた。承久の変で朝幕関係は逆転して幕府支配が全国に、確実に行きわたることになった。

これをもって武家政権のはじまりだともいえるのではないか。

そして、このことが日本の中世を築きあげていくことになった。 いいかえれば政子はこれ以後七百年以上続く日本の武家政権支配を生み出した偉大な母親であったのだ。

番組ナビゲーター:泉秀樹(いずみ ひでき)
作家・写真家 昭和18年(1943)静岡県浜松市生まれ。昭和40年(1965)慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立。写真家としてもヤマハ横浜・藤沢で『モーツアルトのいる風景展』、藤沢市民ギャラリーで『四季の藤沢-人と海と街展』を開催するなどの活動をつづけている。昭和48年(1973)小説『剥製博物館』で第5回「新潮新人賞」受賞。日本文芸家協会会員。

「泉秀樹の歴史を歩く」

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