【北条時政】鎌倉幕府の初代執権!一代で北条氏を権力者へ押し上げた男の人物像

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【北条時政】鎌倉幕府の初代執権!一代で北条氏を権力者へ押し上げた男の人物像

源頼朝の妻である北条政子やモンゴル軍を撃退した北条時宗など、鎌倉時代には北条氏が大きな活躍をみせますが、その礎を築いたのが北条時政(ほうじょうときまさ)です。令和4年(2022)に放送される『鎌倉殿の13人』では坂東彌十郎さんが演じることで知られる時政は、もともと頼朝を監視する立場の人間でした。ですが、頼朝とともに平家に戦いを挑み、鎌倉幕府樹立に貢献しています。

今回はそんな時政について、頼朝との関係や鎌倉幕府樹立後に権力者となった後の様子を含めてご紹介します。

家系・頼朝との関係

時政の出自については諸説ありますが、平氏の流れをくむ家柄だったという説が有力です。時政の出自や頼朝との関係を見ていきましょう。

出自となる家系は不明

鎌倉市・源氏山公園にある源頼朝像です。

時政は平安末期の保延4年(1138)に北条時方のもとで生まれました。一説によると、北条氏は桓武天皇の流れをくむ平氏の家柄で、現在の静岡県、伊豆の国市韮山周辺を拠点とした豪族だったといわれていますが、時政以前の系譜が史料によって異なるため定かではありません。

さらに、永暦元年(1160)に14歳の頼朝が流人として伊豆に流されて来る時まで、時政がなにをしていたかを示す史料も残っておらず、時政の出自や幼少期の様子は謎に包まれています。

頼朝の監視役から義理の父に

菊池容斎による北条政子の肖像です。

平治元年(1160)に平治の乱が勃発し、源義朝の息子である頼朝は流刑のため伊豆にやってきます。伊豆を拠点としていた平家側の豪族である時政は、頼朝の監視役を務めることになりました。そんなある日、時政を驚かす事態が発生します。なんと、自分の娘である北条政子が頼朝と恋仲になってしまったのです。

「平家が隆盛を極めている時に自分の娘が源氏と結婚してしまうと、大変なことになる」と、時政は頼朝と政子の結婚に猛反対します。しかし政子は時政に反抗し、頼朝に会うために暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら頼朝のもとへ行ったこともあったそうです。

結局、時政は頼朝と政子の結婚を認めます。時政がどんな思惑で結婚を認めたのかは定かではありませんが、この選択が北条氏を鎌倉幕府の権力者に押し上げるきっかけになりました。

頼朝の挙兵

頼朝と政子の結婚を認めた時政は、頼朝が挙兵する際にともに行動するようになります。

石橋山の戦いで息子が討ち死に

治承4年(1180)以仁王が平家に対して挙兵し、治承・寿永の乱(源平合戦)が始まります。頼朝もこの動きに呼応する形で流刑地の伊豆から挙兵。時政は息子である北条宗時とともに頼朝に従軍します。

しかし、頼朝軍は出端をくじかれます。挙兵したばかりの頼朝軍は「石橋山の戦い」で大庭景親に大敗を喫してしまったのです。この戦いで頼朝と時政は安房国(現:千葉県南部)に逃亡。宗時は討ち死にしてしまいました。

頼朝の使者となる

石橋山の戦いで敗北を喫した頼朝は再起を図るため、時政に甲斐国(現:山梨県)で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流するように命じます。無事に合流できた時政と甲斐源氏は平家方の軍勢を倒し、駿河国(現:静岡県中部)を手中に収めます。

一方、頼朝は平家が体制を整えている間に味方の軍勢を増やし、鎌倉を制圧。勢いに乗った頼朝はその後の戦いを有利に進め、寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させることになりました。

京都守護としての活躍

壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた頼朝ですが、源義経が頼朝の意に反する行動をとるなど、統率が取れていない状態になってしまいました。時政はそんな頼朝を救うべく、京で活躍します。

頼朝追討宣旨について朝廷に直談判

5年近くに及んだ治承・寿永の乱が終結すると、義経は後白河法皇に要請して頼朝追討令を出してもらうなど、頼朝に対して反旗を翻すようになります。これに激怒した頼朝の命を受けて、時政は約1000騎を率いて上洛し、後白河法皇との交渉に臨みました。

その結果、義経を捕らえることを目的とした守護・地頭の設置を認めさせることに成功します。守護とは一国を支配して軍事や警察を担当する機関のことで、地頭は土地の管理、年貢の徴収、治安維持などを担当する機関のことを指します。

京都守護と呼ばれる

さらに時政は、京において平家残党の捜索や治安維持、義経失脚後に起こった混乱の収拾、朝廷との政治的な交渉など、ありとあらゆる業務を担っています。これらの業務は「京都守護」と呼ばれるようになり、在任期間およそ4ヶ月という短い期間ながら、時政は京都守護として高い評価を受けることになりました。

時政の働きによってピンチを脱した頼朝は、奥州平泉(現:岩手県南西部)で奥州藤原氏にかくまわれていた義経を自害に追い込み、奥州藤原氏も滅ぼします。東北地方の勢力も潰した頼朝は、建久3年(1192)に後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられました。

幕府の実権を掌握

鎌倉幕府の設立に大きく貢献した時政は、頼朝の死後に大きな権力を手にします。

権力争いを制して源実朝を擁立

『國文学名家肖像集』に収録されている源実朝の肖像です。

時政は頼朝の死後に発足した集団指導体制「十三人の合議制」のメンバーとなり、有力御家人としての存在感を増していきます。十三人の合議制発足から半年が経ったころ、合議制のメンバーだった梶原景時の讒訴(ざんそ:他人を陥れようとして主人に対し事実を曲げて伝えること)により、頼朝の側近を務めた結城朝光の立場が不利になると、これに怒った御家人達は景時糾弾の連判状を鎌倉幕府2代将軍である源頼家に提出します。この騒動で景時は追放。その後、景時は一族を率いて京に向かいますが、地元の武士から襲撃を受けて討ち死にしてしまいます。

実は、時政は景時を糾弾する連判状に署名していませんでした。ですが、連判状は、時政の娘である阿波局(あわのつぼね)が朝光に対して「景時があなたを亡き者にしようとしている」と告げたことがきっかけで作成されたので、景時の追放には時政がかかわっていた可能性があります。

また、時政に不満を抱いていた比企能員が、病床の頼家に時政追討の命令を出すように迫ったことを政子が聞くと、時政は能員を鎌倉にある自邸に呼び出して謀殺します。そして、政子が比企一族討伐の命を下し、北条義時を大将とする軍勢が出撃。比企一族を滅亡させます。

さらに、時政は頼家の将軍職を廃し、修善寺へ追放。頼家がまだ存命であるにもかかわらず、朝廷には「頼家が死去した」という虚偽の報告を行い、自分の息がかかった源実朝(みなもとのさねとも)を3代将軍に擁立しました。修善寺に幽閉されていた頼家はのちに義時が差し向けた刺客によって殺害されます。政敵がいなくなった時政は初代執権となり、鎌倉幕府を掌握する権力を得ることができました。

牧氏事件で失脚

しかし、時政はその強引さが原因で、有力御家人である畠山重忠との間に軋轢(あつれき)を生みます。重忠は時政の娘婿でしたが、時政は元久2年(1205)に平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼしてしまいます。

さらに、時政は後妻である牧の方と共謀して実朝を殺害し、娘婿である朝雅を新将軍として擁立することを画策。ですが、政子・義時をはじめとした時政側の御家人の多くが時政に反旗を翻したため、陰謀は失敗に終わります。これによって幕府内で完全に孤立してしまった時政は鎌倉から追放され、伊豆国へ隠居させられることになりました。

謀反人として存在を否定される

陰謀が失敗して追放されてしまった時政は、清廉潔白で知られる3代執権・北条泰時からは、謀反人であるとして存在を否定されてしまうなど、悲しい最期を迎えてしまいます。ですが、流人時代の頼朝を支え、朝廷と巧みな交渉をして頼朝のピンチを救った時政は、鎌倉幕府樹立に不可欠な人物だったといえるでしょう。

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