【北条時房】初代六波羅探題を務め、鎌倉幕府を支えた美男子の人生とは

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【北条時房】初代六波羅探題を務め、鎌倉幕府を支えた美男子の人生とは

北条時房は、鎌倉幕府の執権を代々務めた北条一族のひとりで、初代六波羅探題を務めました。今回は、北条時房の生い立ちから鎌倉幕府初期の比企能員(ひきよしかず)の変、承久の乱を経て初代六波羅探題になる経緯やエピソードをご紹介します。

生い立ち〜比企能員の変まで

北条時房の生い立ちから、比企能員の変での活躍までをご紹介します。

北条時政の3男として生まれる

北条時房は安元元年(1175)、伊豆の豪族であった北条時政の3男として生まれました。のちに源頼朝の妻となる北条政子、鎌倉幕府2代執権となる北条義時はそれぞれ異母姉、異母兄ですが、母についての史料はなく不明です。文治5年(1189)4月18日に元服、頼朝の命で三浦義連が烏帽子親(えぼしおや、元服時に加冠を行う人)となり、時連(ときつら)と名乗ります。

建久10年(1199)に頼朝が死去すると、嫡男である頼家が2代鎌倉幕府将軍となりました。時連は蹴鞠(けまり)が堪能だったことから側近として仕え、建仁2年(1202)に時房と改名します。改名した理由は定かではありませんが、「時連」の「連」は銭の単位である「貫」を連想するため印象が悪いと指摘され、これを耳にした頼家が改名を提案した、という言い伝えがあります。

比企能員の変

北条時政の肖像です。

建仁3年(1203)、比企能員の変が勃発。能員は頼家の乳母父であり、娘(若狭局)が頼家の側室であったことから、頼家の舅(しゅうと)にもあたります。そもそも比企氏は頼朝が島流しになっていた頃を支えた比企尼の一族であり、将軍家の外戚として力を強めていたのです。これに危機感を持ったのが頼家の母で頼朝の妻である政子とその父・時政でした。

比企能員の変は「吾妻鏡」をはじめとしていくつかの歴史書で記述が異なっており、決定的な史料が存在しません。とはいえ、この変により比企一族は滅亡させられ、頼家は鎌倉を追放されました。時房は頼家の側近であったにもかかわらず、追放された頼家に連座することなく、その後も鎌倉幕府内で北条氏一門として権力を伸ばしていきます。

畠山重忠の乱~武蔵守になるまで

畠山重忠の乱から、武蔵守になるまでをご紹介します。

畠山重忠の乱

畠山重忠の肖像です。

3代将軍・源実朝の代になり、元久2年(1205)6月22日、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において、武蔵国の有力御家人であった畠山重忠が義時率いる大軍によって滅ぼされます。これを命じたのは、牧の方から「重忠は謀反を企てている」と報告を受けた時房の父・時政でした。時房も兄である義時も重忠の忠義を訴え「謀反などするはずがない」と抗議しましたが、「牧の方が継母だからと仇なすつもりか」とほとんど言いがかりのように迫られ、やむなく出陣します。

人望厚かった重忠までも強引に滅ぼさせたことで、北条氏内でも時政・牧の方に対する不満が募ります。結局、御家人の大半は政子や義時らに味方し、時政と牧の方は鎌倉を追放、隠居処分となりました。

遠江守から武蔵守へ

時政失脚後、時房は遠江守に任ぜられますが、その後、駿河守に、承元4年(1210)1月14日には武蔵守に任ぜられます。兄の義時が相模守であることから、北条氏はついに幕府と関係の深い武蔵国・相模国両国を掌握したことになりました。その後も武功を上げて、上総国の荘園を拝領します。さらに実朝が建保7年(1219)に暗殺されると、上洛してのちの摂家将軍となる藤原頼経(当時2歳)を連れて鎌倉へ帰還します。

承久の乱を経て政所別当に

承久の乱を経て初代六波羅探題に、さらに政所の別当になった経緯を解説します。

承久の乱後、初代六波羅探題南方となる

承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府、主に義時に反旗を翻した承久の乱では、義時の息子で甥にあたる北条泰時や、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱らとともに東海道を進軍し、上洛します。6月には時房が瀬田(現・滋賀県大津市)を、泰時が宇治(現・京都府宇治市)を破って入京しました。

乱後、後鳥羽上皇が隠岐島に流されると、時房・泰時はそのまま京に止まり、初代の六波羅探題南方・北方となりました。「六波羅探題」とは、西国の御家人を統括するとともに、朝廷を監視するための幕府の機関です。以降、幕府の出先機関として、朝廷はもちろん、西国勢力が幕府に反逆しないよう抑える役割を担います。

泰時とともに、政所の別当に

「本町連本朝廿四孝」より 『北條泰時東鑑』

元仁元年(1224)、義時が死去すると、6月28日には泰時が執権になり、政子が時房を後見役に任命。執権を補佐する連署となります。翌年には政子も死去し、以降、執権である泰時と協力しながら政務を執り行いました。

時房が京都から連れてきた頼経が鎌倉幕府4代将軍に就任。貞永元年(1232)に従三位に任ぜられ、政所を設置できるようになったことで、時房は泰時とともに政所別当(いわゆる長官)に就任しました。ただしこのとき、泰時は筆頭の別当を時房に譲ったため、政所のトップは時房でした。

延応2年(1240)に時房は死去。亡くなったのちの連署は空席でしたが、宝治元年(1247)に義時の3男で泰時の異母弟にあたる北条重時が就任します。

北条時房にまつわるエピソード

時房にまつわるエピソードを2つご紹介します。

蹴鞠の得意な美男子

容姿にも所作にも優れていて、頼家・実朝2代にわたって和歌や蹴鞠の相手を務めました。また、後鳥羽上皇の前でも蹴鞠を披露したところ、上皇に気に入られて出仕するよう命じられ、京都で活動していたこともあります。

時房が蹴鞠を得意としていたエピソードとして、建保6年(1218)に政子とともに上洛した際、後鳥羽上皇の蹴鞠の会に参加したというものも残っています。

甥・泰時との関係

甥である泰時とは、承久の乱以降さまざまな場面で協力し合っています。しかし、確執がなかったわけではなく、例えば、泰時が「今後は賞罰を自分ひとりで決める」と宣言すると、時房は突如として病を宣言し、頼経の元服を欠席しています。一方、泰時は時房の没後、時房の長男・時盛を排し、自分の娘婿である朝直を重用することで時房流を分裂、泰時流を安定化させるなどの動きも見られました。

時房と泰時の関係を表すエピソードとして、泰時が病に伏せっているとき、時房が同僚を集めて酒宴を開いていたというものがあります。「泰時が危ない状態なのに、なぜ酒宴など開けるのか」と迫られると、時房は「泰時が生きているからこそ酒宴ができるのだ。亡くなってしまったらおちおち酒宴も開けない」と語ったと言います。

つまり、時房と泰時との関係はべったりとした親密さではなく、互いにやや緊張感のある関係ではあったものの、ある種の信頼関係があったと考えられます。泰時が病から回復すると信じていたからこそ、時房は酒宴を開けたわけですし、泰時は自分が病を患っている間に時房が酒宴をしていても、何らとがめることがなかったからです。

鎌倉幕府、北条家を陰から支えた立役者

時房は政子・義時ら異母兄姉の強烈なエピソードに隠れがちですが、兄弟や甥など親族を助けてさまざまな場面で活躍し、承久の乱での活躍から初代六波羅探題に任命された人物です。甥にあたる泰時とは互いによき政治的パートナーであり、確執も多少はあったものの信頼関係で結ばれていたのでしょう。鎌倉幕府の北条政権を、陰で支えた立役者の一人と言えます。

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