激動の幕末、倒幕という時代の流れに抗い、最後まで徳川家への忠義を貫き続けた人たちがいました。その一人が会津藩主・松平容保(かたもり)です。京都守護職として活躍した容保ですが、その生い立ちや明治以降の生活はどのようなものだったのでしょうか。
松平容保の幼少期から藩主になるまで
天保6年(1835)松平容保は江戸・四谷の高須藩邸で生まれました。父は美濃高須藩10代藩主・松平義建、母は側室の古森氏。血筋を辿ると現在の徳川宗家の祖先にもあたります。
美貌の少年だった幼少期
弘化3年(1846)叔父の会津藩8代藩主・松平容敬の養子となった容保は、会津にて家風に基づいた教育を受けることになります。これは皇室を尊ぶ神道、義理の精神を重んじる儒教、徳川家への絶対随順を唱える会津藩家訓といったもので、その後の容保の指針となっていきます。
このような英才教育を受けた容保は、美少年としても有名でした。会津松平家の屋敷に迎えられた際には、その美貌に会津家の男女が騒いだといわれています。
会津藩主となった容保
会津では上級藩士の子弟は10歳になると藩校「日新館」に入学することが義務となっていました。日新館では四書五経など10冊以上の中国の古典を学びます。各家では入学前に素読をさせていたといいますから、勉学に対する意識の高さが伺えますね。
容保もこの日新館で文武の演習を行い10代半ばで家督を継承、会津藩主肥後守(ひごのかみ)となりました。
京都守護職と容保について
文久2年(1862)、28歳の若さで容保は京都守護職に就任します。このことが彼の名を歴史に刻み込むきっかけとなるのですが、一体どのような経緯で役職に就いたのでしょうか。容保の功績と共に振り返ります。
家臣の反対にあうも家訓に従う
文久の頃には、江戸幕府の権威は失墜し、尊王攘夷論が巻き起こる京都は幕末志士の過激な行動などで治安が悪化していました。そこで治安維持のため「京都守護職」が発案され、容保が就任を打診されます。
容保は当初これを断りました。この職に就けば会津の国力が落ちると予想され、自分自身の体力にも不安があったからです。家老職である西郷頼母(たのも)も得策ではないと断固反対でした。
しかし、将軍後見職の一橋慶喜や政事総裁職の松平春嶽(しゅんがく)から徳川への忠誠を誓う会津藩家訓を引き合いに出されると、容保は就任の決意を固めたのです。
京都守護職としての働き
京都守護職となった容保は会津藩兵と共に上洛し、孝明天皇に拝謁します。美男子なうえ実直な性格だった容保は天皇に気に入られ、朝廷での評判も良かったようです。
幸先の良いスタートを切った容保は次々と攘夷派志士を弾圧し、京都の治安維持という職務を全うしました。文久3年(1863)、第14代将軍・徳川家茂の上洛時には警護も任され、「八月十八日の政変」では攘夷派の長州勢を京都から追放。これらの活躍は孝明天皇から賞賛され、容保は天皇直筆の手紙と和歌を下賜されています。
新選組との関係性とは?
京都の治安維持にあたっては、共に上洛した会津藩兵だけでは人手不足でした。そのため、浪士によって結成された壬生浪士のちの新選組や、旗本中心に組織された京都見廻組などが容保の配下に置かれることになります。新選組は「幕府の犬」と揶揄されることもありますが、正式には京都守護職・容保の配下でした。
京都での新選組の華々しい活躍とは裏腹に、彼らが攘夷派志士を摘発すればするほど、会津藩は攘夷派から恨みを買うことになります。これは、会津藩主の容保にとって心痛の種だったかもしれません。
会津戦争に突入!母成峠で完敗
慶応3年(1867)、第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還により徳川幕府は終焉を迎え、京都守護職も御役御免となりました。しかし、翌年には「戊辰戦争」が勃発、会津は戦地となります。
会津若松城で徹底抗戦を覚悟
「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ会津に帰還した容保は、新政府軍に恭順を示す準備をしていました。新政府はこれを拒否し、倒幕派を弾圧した容保を賊軍・朝敵とみなし追討令を出します。そのため会津は「奥羽越列藩同盟」の諸藩と協同して新政府への徹底抗戦を覚悟、「会津戦争」が勃発します。
この戦いにおいて会津藩はいくつかのルートを警戒していましたが、新政府はその裏をかいて北側の母成峠から攻め入りました。幕府歩兵の精鋭部隊である伝習隊や新選組も応戦しましたが守りきれず退却、これにより藩境はたった1日で突破されてしまいます。容保も自ら出陣して援軍を差し向けましたが時すでに遅く、会津軍は籠城へと追い込まれました。
多くの悲劇の中、降伏する
籠城戦は1カ月ほど続きましたが、他の戦線でも形勢は不利になっていました。劣勢だと判断した奥羽越列藩同盟の主力藩は次々に降伏を表明、会津藩も米沢藩の勧めで最後には降伏することになりましたが、このときすでに町の大部分は焼野原だったといいます。
会津戦争では武器を持てる人間は誰でも戦力として駆り出されたため、多くの悲劇を生みました。10代の少年たちによる白虎隊、薙刀を抱えて戦った女性たちによる娘子隊の話は今なお語り継がれています。
その後の容保の人生は?
降伏後の容保は妙国寺へ移され、その後は東京の池田邸に永預けとなりました。明治に入ってからは和歌山藩や斗南藩に預け替えとなりましたが、東京に移住した翌年には蟄居を解かれています。明治13年(1880)には日光東照宮の宮司に任命されましたが、明治26年(1893)に東京の自宅で逝去。59年の人生に終わりを告げました。
波乱万丈の人生だった容保ですが、晩年は仕事のかたわら歌道を楽しんだそうです。彼は孝明天皇からもらった手紙と和歌を竹筒に納めて首にかけ、死ぬまで大事に持っていたといわれています。
家訓を重んじ、生真面目すぎた藩主
幼い頃からの教えを守り、与えられた職を全うした松平容保。しかし、家訓を重んじるその生真面目な性格により、会津戦争では多くの悲劇を生んでしまいました。最後まで武士として忠義を貫いた容保でしたが、もし京都守護職を固辞していたら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
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