「院政」と聞いて、皆さんはどのようなイメージをもちますか? 後継者にポストを譲って自らは表舞台から退き、陰で実権を握る。組織経営などを語るさい、「院政」という言葉はよく、そんなニュアンスで使われますね。では、歴史上の院政とは、実際にはどのようなものだったのでしょう。
「院政」のはじまり
「院」とは、天皇の位を譲ったあとの上皇のこと。その上皇=院が政治の実権を握っているのが院政です。歴史上、本格的な院政がはじまったのは平安時代の後期です。1086年(応徳3)、白河天皇がわずか8才の堀河天皇に位を譲って上皇となり、政治の実権を握りました。
こののち、白河上皇-鳥羽上皇-後白河上皇の三代、約100年にわたって上皇が政治の実権を握っていた時期を「院政期」と呼んでいます。この院政期には、武家が力をたくわえて都では保元の乱・平治の乱が起こり、やがて平家一門が武家政治への扉を開いてゆきます。そのいきさつは、大河ドラマ『平清盛』で描かれたとおりですね。
ではなぜ、後継者に位を譲って陰で実権を握るなどという、めんどうなやり方をする必要があるのでしょう? 院政には、どのようなメリットがあったのでしょうか?
「院政」のメリットとは?
戦国大名のなかにも嫡男に家督を譲りながら、後見役として外交や戦略の実権を握りつづけた人たちがいます。昨年の大河ドラマ『真田丸』で描かれていた北条氏政と氏直の関係が、その典型です。
氏政に「院政」が必要だったのは、この時期の北条家がどんどん勢力を広げていたためです。大きくなった権力は引きつぐのも大変ですから、新しい当主が実際に政治や外交を動かせるようになるまで、時間がかかります。そこで、リレーでバトンを渡すときのように、走りながら(実務をこなしながら)権力を引きつぐ方がよいわけです。
北条家の場合だと、氏政には氏照・氏邦・氏規といった弟たちがいて、それぞれ戦略や外交で大きな役割を果たしていました。彼らは北条家を支える一族ではありますが、氏直からしてみたら叔父です。いくら当主になったからといって、若い氏直が、実力派の叔父さんたちに頭ごなしに命令できるわけがありません。そこで、氏政が後見しながら、権力のバトンを受けつぐ時間が必要になるのです。
それだけではありません。北条家の勢力が大きくなってゆくと、まわりにいた国衆たちが下に入ってきます。国衆は、軍事や外交については大名の指揮下にありますが、代々受けついできた自分の領地を自分の力で治めているわけですから、大名の家臣ではありません。家臣とは、主君である大名から領地をもらって主従関係を結んでいる立場の人たちのことです。こうした国衆と大名との関係は、大河ドラマ『真田丸』や『おんな城主 直虎』を見ていればわかりますね。
さて、氏直が新しい当主になれば、北条家の家臣たちはみな氏直に従います。でも国衆たちは、氏政の政治力や軍事力に従っていただけであって家臣ではないので、すぐに言うことを聞いてくれるとはかぎりません。ましてやまわりの国の大名たちは、
「氏直とやらが家督をついだそうだが、どれほどの力があるものやら。急に外交方針が変わって、振り回されたら困るなあ」
と思いながら見ています。
そこで後見役の氏政が、国衆たちの頭を押さえたり、外交の窓口になったりしながら、若い氏直に実績をつませてゆく必要があったのです。本社である北条株式会社の社長を氏直に譲り、氏政は会長として北条グループ全体を束ねることにした、と考えればわかりやすいでしょう。
実は、織田信長も1576年(天正4)に嫡男の信忠に家督を譲っていますが、信長はそれと同時に安土城を築いて、天下人としての道を本格的に歩むようになります。原理は北条氏政・氏直の場合と同じ、とわかりますね。
白河上皇が「院政」を始めた理由
さて、話は500年ほどさかのぼって、舞台は平安時代後期の京都です。白河天皇の立場は、北条氏政や織田信長とはだいぶ違いそうですね。白河天皇は武力で領地を広げていたわけではありませんから、戦国大名と国衆との関係を天皇・上皇と貴族に置きかえるわけにはいきません。ではなぜ、白河上皇は院政をはじめたのでしょう?
よく言われるのは、位を譲ることによって、跡継ぎの天皇を指名するキングメーカーの立場を得ることができるから、それによって大きな権力を手にできる、という説明です。これは一理あります。
でも、白河上皇が院政をはじめた最大の目的は、別のところにありました。それは一言でいうなら、税金と資産の問題だったのです。どういうことでしょうか。
日本の古代国家は「律令制」というシステムによって治められていました。律令制の大原則は「公地公民」。つまり、日本全国の土地と人民は天皇のもの、ということです。したがって、支配階級である貴族たちは、天皇に仕える役人としてポストとサラリーをもらう立場であって、誰も土地を私有することはできない法体系になっていました。
でもほら、そこはそれ。支配者が全く何の資産も利権も持たないなどということは、現実にはありえません。彼らは、どうにかこうにか法の抜け穴を見つけて、蓄財や資産形成に励みます。それが、荘園です。
わかりやすくいうと、私有できないはずの土地に、年貢を取り立てる権利やら、記録を管理するかわりに手数料を取る権利やら、そうした権利を認めてもらうために政治家に口利きするマージンやらが、いくつも折り重なるように設定されてゆくのです。そうして取り立てられた年貢の上澄みが、都の貴族や有力な寺社に吸い上げられてゆく。この、年貢を吸い上げる利権システムが荘園なのです。
荘園がどんどん増えてゆくと会計上の国庫収入は減りますが、政治家である貴族たちにしてみれば自分の資産は増えるわけですから、政治的には問題になりません。むしろ、大歓迎です。でも、荘園が増えると困る人が支配階級の中に一人だけ出てきます。天皇です。
何せタテマエ上、日本全国の土地と人民は天皇のものですから、天皇が土地を私有することは法的にできません。ところが、実際には各地の土地に利権がいっぱいくっついて、国庫には税収が入ってこないのです。
そこで、たびたび荘園整理令が出されることになります。荘園の申請書類を調べなおして、手続きに不備や疑問のある荘園は認可を取り消すわけです。この荘園整理を大々的に行ったのが、後三条天皇(在位1068~72)という人でした。
後三条天皇の荘園整理令は、かなりの成果をあげました。でもほら、そこはそれ。この手の改革というものは、最初は華々しく打ち出しても、いつのまにか既得権益をもつ抵抗勢力によって骨抜きにされてしまうのが、世の常です。後三条天皇はわずか4年で、息子に位を譲りました。
こうして、1072年(延久4)に即位したのが白河天皇でした。白河天皇は、国庫収入が減って天皇家の力が衰えるという問題に、父の後三条とは間逆の解決策で挑みました。天皇家が私有財産をもつための、法の抜け穴を見つけたのです。
天皇を引退して上皇になってしまえば、政治的にはフリーです。そのフリーの立場を利用して、利権をかき集めることにしました。方法はいくつかありますが、一番手っとり早いのは、寺を建てることです。
明治維新以前の日本は仏教国でしたから、天皇家も仏教徒。天皇や上皇が崩御すれば、葬式は仏式で出されます。ですから、引退して政治的にフリーとなった上皇が、個人の信心で寺を建てるのは自由。その寺に荘園を持たせればよいわけです。早い話、宗教法人を隠れ蓑にした蓄財のようなものですね。さらに、上皇が出家して法皇となれば、寺を建てても誰にも文句は言われません。
自分の息のかかったミドルクラスの貴族を国司に任命させて、その国司から上前をはねるという方法も利用しました。上皇は、天皇を父親として指導できる立場にあるわけですから、国司の任命くらいはどうにでもなります。国司の人事もまた、利権となったのです(知行国主制といいます)。つまり、全国の土地から上がる富を、荘園と国司が管理する公領との二つのルートで吸い上げるシステムができあがったのです。
さて、莫大な利権を手にすると、次の問題は相続になります。上皇(法皇)の莫大な利権を誰が相続するのかは、そのまま皇位継承の問題に重なります。上皇のキングメーカーとしての立場が、一番モノをいうのはこの場面です。と同時に、皇位継承は摂関家のような有力貴族たちをも巻きこみます。誰の娘が天皇の子を生むかが、貴族たちの浮き沈みを決定づけるからです。
こうして白河上皇は、支配階級全体の利権を仕切る大親分となってゆきました。もちろん、利権を仕切るためには、実務をテキパキとこなすスタッフが必要です。そうしたスタッフを、上皇はどこから調達したのでしょうか。
当時の貴族社会はカースト制社会のようなもので、就くことのできるポストは身分や家格によって最初から決まっていました。いくら仕事ができても頭がよくても、出世は最初から頭打ち。こうなると、勉強熱心で頭の切れる役人の中には、野心と才能を持てあます者が出てきます。
上皇のオフィスである院庁(いんのちょう)が、こうした者たちの受け皿となり、優秀なスタッフを抱えこむことによって、上皇は利権を仕切ることができたのです。そして、身分や家格にとらわれない人材登用が可能となったことによって、藤原信西や平忠盛のような者たちがのし上がる道も開けることになりました。
白河上皇がつくり出した院政というシステムは、王家が財力を集めて貴族社会に君臨するための、現実的な方策でした。しかし一方で、利権をめぐる権力者たちの暗闘に武士たちが介入する下地を作りだした、という意味では、天皇家と貴族社会にとって諸刃の剣ともなったのです。
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