世界史を学べば一度は耳にするはずの名前「始皇帝」。
中国全土を初めて統一し、文字通り最初の皇帝となりました。しかし、彼の最期が再び時代を混乱させていくのです。
今回は無敵の始皇帝がどんな最期を迎えたのか、それに伴う影響をご紹介します。
偉大なる始皇帝
中国が幾つもの国に分かれ争いを続けた戦国時代に終止符を打った英雄が、秦王政、後の始皇帝でした。
彼は紀元前221年に中国全土を統一し、始皇帝と名乗るようになります。
始皇帝は郡県制導入による中央集権化や度量衡、漢字書体の統一などの画期的な政治改革を行います。同時に、自身の陵墓の建設にすでに取り掛かっていました。これが後の始皇帝陵と兵馬俑であり、巨大な阿房宮や遊牧民族に対抗した万里の長城の建設などと合わせて、途方もないスケールの大事業を推し進めたのです。
その一方、焚書・坑儒を行い、自身への一切の批判を封じ込める強権的な姿勢も取りました。
不老不死への憧れ
すべてを手中にした始皇帝は、自分が特別な人間だと考え、永遠の命を望むようになりました。
仙人の境地に達する神仙思想に傾倒し、方士・徐福に命じて不老不死の薬を探させたり、自身も不老不死を祈る儀式を行ったりしています。そしてついには、人体に有毒な水銀を不死の効果ありとして飲むようになったとされています。
中国統一という偉業を成し遂げた英明な始皇帝に、不老不死など不可能だとわからなかったとは思えませんが、強大な権力は人を変えていくのかもしれません。
不吉な予兆、命尽きる瞬間
紀元前211年、東郡というところに隕石が落ちました。そこに「始皇死而地分=始皇帝が死んで天下が分かれる」と何者かが刻みつけます。それを耳にした始皇帝は周辺住民を取り調べさせましたが、結局誰の仕業かわからなかったため、住民を皆殺しにして隕石を焼き砕きました。
紀元前210年、始皇帝は都の咸陽から恒例の巡行に出ます。ここから会稽(浙江省)、山東半島を巡り、沙丘(河北省平郷)に至って、始皇帝は倒れました。
急激に悪化する自分の状態に、死について語りたがらなかった始皇帝は覚悟を決めます。
長子の扶蘇に「咸陽に戻り、自分の霊柩車を迎えて葬儀を行うように」との手紙をしたため、側近の宦官・趙高に託し、紀元前210年9月10日死去しました。49歳、中国統一を果たしてわずか11年後のことでした。
瓦解へ向かう秦
趙高はじめ側近たちは始皇帝の死を隠しました。
しかし皇帝の遺体を乗せた車からはやがて腐臭が漂い始めたので、塩漬けにした魚を積み込んで誤魔化したほどです。
そして趙高は、丞相の李斯と始皇帝の末子・胡亥を取り込みました。彼は始皇帝に託された扶蘇への手紙を握りつぶしていたのです。代わりに始皇帝の手紙を偽造し、扶蘇と将軍・蒙恬を自殺に追い込んでしまいました。
そして、凡庸な胡亥が二世皇帝として即位すると、秦は下り坂を転がり落ちていくのです。
紀元前206年に、秦はたった15年の歴史を終えることになったのでした。
始皇帝の生への執着
始皇帝陵の地下には、巨大な地下宮殿があることがわかっています。司馬遷の「史記」では「水銀の川が流れ、天井には宝石がきらめき、侵入者を射殺する装置が作られている」と記され、実際に水銀が使われた痕跡があるそうです。
また、兵馬俑坑には約8千体もの兵士の人形が収められ、始皇帝が死してなお権力を握ろうとしていたことを示しています。
自身が有能すぎたために自分以上の人材を見つけられなかった始皇帝は、ならば自分が不死となればよいと考えてしまったのでしょうか。しかし水銀を飲むことは致命的で、結果的に彼の命を縮めるという皮肉につながってしまったのだと思います。
(xiao)
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