2017年放送の『おんな城主 直虎』のように、最近では女性が主人公の大河ドラマも増えてきましたね。2013年放送の『八重の桜』もその一つです。
ご存知の通り、「八重の桜」は会津の砲術師範の家に生まれた新島八重がヒロインです。幕末明治の激動の時代をたくましく生き抜いた話ですが、物語の前半ではこれまであまり知られていなかった凄腕スナイパーとしての八重の姿が描かれていました。
男勝りで砲術にも達者だった八重
八重は幼い頃より会津藩の砲術師範であった父・山本権八と兄・覚馬に砲術を教わりました。手ずから射撃を行い、鉄砲の分解から組み立てまでお手のものだったそうです。性格も快活で体力にも優れ、13歳の頃には60キロ近い米四斗俵を上げ下げしていたのだとか。今ならスポーツ大会の選抜選手に選ばれるような女性だったわけですね。
幕末には西洋から新式鉄砲や弾丸が大量流入しますが、山本家は新式の高島流砲術も会得していたため、容易に取り扱えてまわりに実地で教えることができました。有名な白虎隊に所属していた少年たちにも銃砲の手ほどきをしていたそうです。
前線で縦横無尽に活躍する女狙撃手
戊辰戦争で会津は新政府から侵攻を受けます。新式兵器と豊富な兵站の新政府軍が優勢で、会津側はじりじりと追い込まれました。
武家の子女も煮炊きや救護活動で籠城戦に参加しましたが、八重は一際特異な働きを見せました。新式の七連発スペンサー銃を手に、鉢巻、刀を差して文字通り前線の一兵士として男の兵隊とともに奮闘したのです。狙撃も一級品で、三の丸の銃眼からの狙撃は男の兵隊よりよっぽど成果をあげたそうです。
一日二千発の砲弾が撃ち込まれても八重はめげませんでした。砲弾内部の鉄片が危害を加えると、殿様相手に分解して見せて防衛態勢を進言したり、夜な夜な城を抜け出し奇襲をかけます。前線の敵指揮官の狙撃犠牲者が膨大になったのも八重の手によるものが多かったのではないかと推測されており、平石弁蔵『会津戊辰戦争』をはじめ八重の個人名をあげる歴史書も多くあります。
圧巻なのはのちに日露戦争で有名になる大山巌元帥銃撃の件です。
北出丸で劣勢に陥った土佐藩兵を救援すべく、薩摩軍の砲兵隊長だった大山巌が指揮をとったのですが、城内からの正確な狙撃を右太腿を受け昏倒、戦線離脱して後方に移送されました。記録によると八重がこの攻防戦に関わっており、スナイパーは八重だったのではと言われているのです。のちの日露戦争での貢献を思えば、大山巌が助かってよかったのかもしれませんね。
こうした女傑の八重がいてもやはり個人では限界があります。会津は最終的に降伏することになり、八重は後々まで「この時のことを思い出すと今でも切歯扼腕する」といかに口惜しかったかを述べています。
明治の世では、その独立心旺盛な性格を買われて同志社大学を設立した新島襄と結婚しました。
新島は西欧式の男女平等を理想としており、八重はお眼鏡にかなう女性でした。堂々と人力車に相乗りして、人前で仲睦まじくします。西洋服と日本服のちゃんぽんや夫と対等にふるまう姿勢は保守的な人から反発を買い、同志社に在学していた徳富蘇峰(後に『近世日本国民史』などを著したジャーナリスト)からは西洋日本の継ぎはぎの意味で「鵺」呼ばわりもされました。
それでも八重は自分のスタイルを貫きます。学生を家族のように世話し、襄が亡くなった後は日本赤十字社の正社員として日清日露の戦争で看護活動に奔走。この功績が認められ、皇族以外の女性として初めて叙勲を受けます。
後に「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチン・ゲール」などと称された新島八重。常に時代と向き合い、自分の信じる道を貫いたその生き方は、現代に生きる私たちも学ぶところが多くありそうです。