旧暦の元治元年6月5日は、京都の三条木屋町で池田屋事件が起きた日です。
池田屋に集まった長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちの会合を、新選組が摘発するという形になりました。多くの有望な志士を失った長州藩は、強硬派に引きずられる形で「禁門の変」へとなだれ込んでいくのです。
しかし、大枠としてはわかっていても、実際にどんな戦闘が繰り広げられたのか、その裏に誰のどんな意図が働いていたのかもはっきりとはしていません。そんな池田屋事件のちょっとした謎について、見ていきましょう。
池田屋事件「階段落ち」は無かった?
池田屋事件での死闘は、新選組にとってはハイライトでした。踏み込んだ近藤勇や沖田総司らの活躍をご存知の方も多いと思います。階段からゴロゴロっと志士を斬り落とす、いわゆる「階段落ち」というイメージがあるかもしれません。
ただ、これはどうやら無かったというのが有力な説なのです。
写真に残されている池田屋の様子を見ると、階段は小さく急勾配です。そのため、転がるようにして人が落ちるということは考えにくいのだそうです。
また、踏み込んだ新選組側は少なく、志士たちは10人はいたようで、とても駆け上がる状態ではなかったようなのです。藤堂平助は負傷、永倉新八は刀が折れ、沖田総司は倒れるなど、ひどい状況でした。そのため、応援が駆け付けるまでは劣勢だったのです。
しかし新選組にとっては一躍名を挙げた池田屋事件、後世に伝わるうちに脚色が施されてダイナミックな階段落ちも加えられていったのでしょう。
沖田総司は本当に喀血したの?
池田屋事件と言えば、戦いの最中に沖田が肺結核のために喀血するシーンが目に浮かびませんか?
ドラマや小説の影響もあると思いますが、これによって彼が戦線離脱するということになるのです。
しかし、永倉の手記には「(体調を崩して)屯所に引き取った」と書かれ、近藤の手紙には「昏倒した」とだけ書かれており、「喀血」「血を吐いた」などの言及はないのです。
肺結核で喀血するなら、病期としては相当に進んでいるはずなので、周囲にも気づかれるはずです。当時はそこまでの様子ではなかったので、感染・発病していたとしても深刻な状態ではなかったのかもしれません。
時期的に熱中症などという可能性があるそうですが・・・でもやっぱり喀血したという方がドラマティックだなと思ってしまいますね。
今、池田屋はどうなっているの?
池田屋の建物は1960年頃まで残っていたそうですが、やがて解体され、跡地にはパチンコ店などができました。
現在は居酒屋になっており、池田屋を意識した内装になっています。大きい階段もありますし、新選組をテーマにしたものになっているので、ファンには嬉しい場所ですね。
そもそも池田屋事件の口実はでっち上げだった!?
池田屋事件の発端は、尊王攘夷派の志士たちが京都大火や天皇拉致を企てていたため、新選組がこれを阻止するため実力行使に出たということになっています。
しかし、これが新選組によるでっち上げだという説もあるのです。
この時池田屋で話し合われていたのは、新選組に捕らわれた仲間・古高俊太郎奪還についてだったとしか桂小五郎の手記には記されていません。
加えて、古高が拷問によって自白した発言以外の客観的な証拠がなかったため、新選組側で理由を捏造して池田屋襲撃に至ったのだとも言われています。さて真相はいかに?
はっきりとした記録が残っておらず、誰が誰を斬ったのかもわからないほどだった池田屋事件ですが、だからこそ推測の余地がありますね。
本当は誰がこの事件の背後にいたのか、調べてみると意外な発見があるかもしれませんよ。
(xiao)
参照元:日野市観光協会 http://shinsenhino.com/
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