世界の長者番付を見ると、なんでこんなにお金持ってるのというお金持ちがずらりと並んでいますよね。もちろん日本にもそういう人たちがいます。しかし、江戸時代のお金持ちのスケールたるや、今とは比べ物にならないほどだったのです。
今回は江戸時代の豪商たちの凄すぎるエピソードをご紹介します!
国家予算を超える資産!淀屋辰五郎
米相場の基準となる米市を創設し、経済の中心となって繁栄したのが大坂の淀屋です。その5代目である辰五郎は「前代未聞の豪商」として名を馳せました。金の襖や金張りの書院がある屋敷に住み、屋敷の前に橋をかけて「淀屋橋」と名付けたのです。この地名は今でも大阪に残っています。
その遊興費は、1年半で100万両(約1000億円)に達したと言われています。この額は東京の新丸ビルが1棟建つほどだそうですよ。信じられません・・・。そして資産総額は20億両(約200兆円)もあったと言われています。平成28年度の日本の国家予算が約96.7兆円ということを考えても、途方もない資産だということがわかりますね。しかし、あまりの贅沢さがあだになり、江戸幕府から財産没収処分を受け淀屋は衰退してしまいます。
有名なのに謎に満ちた紀伊國屋文左衛門
材木商人として富を成した紀伊國屋文左衛門。有名ですが、実は生没年などがはっきりせず、謎に包まれた点が多い人物です。若い頃に暴風雨の中、江戸へ高騰していた紀州みかんを運び巨利を得た「みかん船伝説」が出世のエピソードとして知られますが、伝説化されており史実かどうかは不明なのだそう。
江戸・元禄期の長者番付では資産が50万両といわれ、これは約500億円に相当します。謎が多い文左衛門ですが、稼いだ金額は尋常ではなかったのですね。
華美を戒めるも息子には届かず…奈良屋茂左衛門
紀伊國屋文左衛門と同じく材木商として成功したのが、4代目奈良屋茂左衛門です。紀伊國屋に対抗し、ほぼ1代で巨万の富を築き上げました。遺産は40万両(約400億円)にのぼったと言われていますが、彼自身は「派手にするな、新しく商売に手を出すな」という遺言を残しています。
しかしその遺言を若い息子が聞き入れるはずもありませんでした。息子は遊興にふけり、父の莫大な遺産をたった10年ほどで使い切ってしまったのです。何をすればそんなに無駄遣いできるのか・・・吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたそうです。
手堅さはNO.1?「三井財閥の祖」三井高利
後の三井財閥の祖となる駿河町両店(越後屋)は、「日本国一番の商人」と称されました。特に三井高利の代に大きく発展を遂げています。呉服屋として新しい商法を取り入れて客をつかみ、後に両替商も営みました。これが三井住友銀行の祖となります。
高利は、「店前(たなさき)売り」「現銀(金)掛値なし」という画期的な商法を編み出しました。当時は掛け売りが当たり前でしたが、人手も金利もかかってしまいます。商品の価格は高くなり、資金の回転も悪くなります。この問題を解決するため店頭での現金取引きを奨励し、商品を安く、数多く回転させることに成功したのです。
「遊芸に気を入申事無之、一生商の道楽」という言葉に象徴されるように、高利は商売以外には興味をもたなかったようです。生涯に7万両(約70億円)以上の財産を高利一代で築きました。
50代からの遅咲き「海の百万石」銭屋五兵衛
加賀で大きな勢力を誇った豪商が銭屋五兵衛です。両替や材木、海運業で成功し「海の百万石」と称されました。北前船航路の要所を押さえ、最盛期は船約200隻を所有し、全国に34の支店を持っていました。50代後半から約20年間に江戸時代を代表する海運業者に成長。総資産は300万両(約3000億円)にも及びました。
その勢いのあまり政争に巻き込まれたと言われており、埋め立て工事の挫折の後に投獄され80歳で亡くなり、銭屋は財産没収および家名断絶という悲劇的な末路を辿りました。
いかがでしたでしょうか?国家予算よりもお金を持っていた淀屋は、もう私たちの想像が及ぶような存在ではありませんね。しかしこうした豪商も幕府に目を付けられ、罰せられた者も少なくないのです。お金って怖いですね・・・。
(xiao)
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