伊達といえば政宗。そして仙台。そんなイメージが浮かびますよね。しかし、政宗の長男・伊達秀宗は、仙台藩を継ぐのではなく、伊予宇和島藩主となっています。
将来の後継ぎと目された秀宗が、長い人質生活を経て行き着いたのは四国の地でした。波乱に満ちた秀宗の人生とはどのようなものだったのでしょうか。
伊達の「御曹司様」の人質生活
天正19(1591)年、伊達政宗の庶長子として生まれた秀宗。政宗の正室・愛姫に男子がなかったため、将来の後継者として「御曹司様」と呼ばれて育ちました。
4歳の時、天下人・豊臣秀吉の人質として伏見城での生活が始まります。文禄5(1596)年には秀吉の猶子となって元服し、秀吉の「秀」をもらって秀宗となりました。秀頼の小姓としても仕えており、秀吉には可愛がられたようです。
しかし関ヶ原の戦いが起きると、三成方の宇喜多秀家邸にて人質に取られました。その後、徳川家康の天下がやってくると、今度は徳川方の人質として江戸で生活することになります。
人質生活ばかりの人生、正直ちょっと同情します・・・。
御曹司様ではなくなった秀宗
しかし、愛姫がこの頃男子を生んだのです。後の忠宗です。
彼が成長するに従い、政宗の跡取りは忠宗と目されるようになっていきました。
一方の秀宗は冷遇されていたわけではなく、このころ、徳川四天王のひとり井伊直政の娘・亀姫を正室に迎えています。
ですが、忠宗が慶長16(1611)年に元服し、時の将軍・徳川秀忠の「忠」の字をもらって忠宗と名乗ると、仙台藩伊達家の後継ぎという立場が決定的となりました。秀宗は、後継者から外されたのです。
ただ、これは秀宗が庶子だったからというよりも、豊臣家の猶子になり豊臣姓まで下賜されていた事実があったためとみられているそうですよ。
伊予宇和島藩での前途多難な船出
その後、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、秀宗は政宗と共に参戦し、戦功として伊予宇和島10万石を拝領します。政宗が裏で、秀宗のことを配慮してやってほしいと家康に懇願していたそうです。
こうして伊予宇和島藩主となった秀宗には、政宗が直々に選んだ家臣団がつけられました。
しかし宇和島藩の財政は最初から厳しく、仙台藩から借り入れをしなくてはならないほどでした。そのため、その返済を巡って家臣たちの対立が起きます。秀宗自身も、宇和島藩が仙台藩の下に見られることも、父以来の家臣に口出しされることにもうんざりしていたところでした。
そしてなんと、仙台藩との関係を重く見る家老・山家公頼(やんべきんより)を、反対派の桜田元親が家族もろとも皆殺しにしてしまったのです。
しかも秀宗は、この騒動を父・政宗にも幕府にも報告しませんでした。
激怒した政宗は、老中・土井利勝に宇和島藩の返上を申し入れ、秀宗を勘当してしまいます。
土井利勝はそんな政宗をなだめ、秀宗との間を取り成します。久しぶりの親子の対面が実現したのでした。
政宗&秀宗、腹を割った親子の話し合い
そこで政宗に対し、秀宗は率直な胸の内を打ち明けます。
「長い人質生活を送らされた上に、長男なのに仙台藩を継ぐこともできなかった。正直、父を恨んでいる」。
それを聞いた政宗は、怒るどころか、秀宗の思いを理解し受け止めました。ここで初めて、親子関係が修復されたのです。以後、2人は文通や贈り物をし合い、交流はずっと続きました。
さすが政宗ですね。懐と愛情の深さを見せつけられました。
以後、秀宗は藩政に励み、明暦4(1658)年に亡くなります。
幕末になると宇和島藩は名君・伊達宗城(むねなり)を輩出し、その後宇和島伊達家は仙台伊達家よりも家格が上となりました。秀宗の苦労は、明治時代になってようやく報われたのですね。
(xiao)
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