【壇ノ浦の戦い】源氏vs.平家、最後の戦いの概要とエピソード

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【壇ノ浦の戦い】源氏vs.平家、最後の戦いの概要とエピソード

平安時代に起こった源氏と平家による「治承・寿永の乱(源平合戦)」は、6年にもわたる大規模な内乱となりました。この内乱に終止符を打ったのが「壇ノ浦の戦い」です。源氏と平家は朝廷と関わり合いながら勢力を強めていきましたが、最終的に勝ち残ったのは源氏でした。「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わしめた平家はなぜ滅んだのでしょうか?

今回は、壇ノ浦の戦いの背景や経過、戦後とその影響、壇ノ浦の戦いにまつわる伝承などについてご紹介します。

合戦の背景

壇ノ浦の戦いの際、源氏と平家はどのような状況にあったのでしょうか?合戦に至るまでの背景を振り返ります。

平家の都落ちと復帰

もともと平家と源氏は朝廷を守る武家でした。しかし、政局の変化により対立を深め、平治元年(1160)の平治の乱後は後白河法皇の平家重用により平家が栄華を極めます。朝廷の実権を握っていた後白河法皇は平家と良好な関係を維持していましたが、やがて平家の勢力拡大に危機感を覚え打倒平家を画策。一方、平清盛は外戚政策を進め、高倉天皇に嫁いだ平清盛の娘・徳子はのちの安徳天皇の生母となりました。

そんな中、後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)の呼びかけで全国の源氏が挙兵し、治承・寿永の乱が勃発。当初は平家が勝利しましたが、清盛の死と飢饉(ききん)により源氏が優勢となり、京を守り切れないと考えた平家は安徳天皇と三種の神器とともに都落ちします。朝廷は三種の神器の返還を要求しますが、平家が拒否したため武力行使を決意。このころ平家は、摂津国福原まで勢力を回復していました。

源範頼・源義経による九州征伐

屋島の戦いの一場面を描いた『源義経梶原逆櫓争論図』

平家討伐に向かった源氏は一ノ谷の戦いで勝利をおさめ、平家は屋島へと逃亡します。頼朝は平家を滅亡させるべく源範頼に九州征伐を命じますが、兵船が調達できず兵糧不足などにより進軍が鈍化しました。そのため源義経が屋島へと出撃し、奇襲攻撃で平家軍を大破。また、兵糧と兵船を確保した範頼軍は九州に渡り、平家軍の背後の遮断に成功します。こうして源氏が屋島の戦いに勝利すると、海上に追われた平家は瀬戸内海を転々とし彦島に逃れました。

合戦の経過

壇ノ浦の戦いはどのように進行していったのでしょうか?『平家物語』『源平盛衰記』などから経緯を探ります。

最後の舞台、いざ開戦!

最後の戦いの舞台となったのは、狭い海峡で非常に流れが速い難所といわれる長門国赤間関壇ノ浦でした。元暦2年(1185)3月、平家側500艘、源氏側800艘(諸説あり)の軍船が関門海峡に集結します。義経は摂津国・伊予国・紀伊国の水軍を味方につけ、自らが先陣に立ちました。『吾妻鏡』によれば、このとき軍監だった梶原景時と先陣について言い争ったとされ、これがのちに義経の失脚へとつながっていきます。一方の平家軍は平宗盛の弟・知盛が大将となって彦島を出撃し、壇ノ浦の海上でついに両軍は衝突します。また、範頼軍は陸地に布陣して平家の退路を塞ぎ、義経軍を支援しました。

戦局は平家軍の優勢だったが……

平家は水軍の運用に長けており、海上で戦いを行ったのは平家に有利に進めるためだったと考えられています。その目論見どおり、当初は平家軍が優勢で義経軍は追いやられました。しかし、潮流が変わりはじめると接近戦となり戦況は逆転。『平家物語』によれば、阿波重能の水軍300艘が源氏に寝返って平家軍の計略を義経に告げたとされており、平家から源氏へ裏切るものも出てきました。

源氏の反撃

壇ノ浦で沈んだ平家の亡霊を描いた歌川国芳の浮世絵

こうして形勢逆転した義経軍の猛反撃により平家の船隊は壊滅状態に陥り、やがて源氏の勝利が決まります。これにより清盛の妻・二位尼は幼い安徳天皇を抱いたまま海に身を投げ、建礼門院ら平家一門の女たちもこれに続きました。

このとき二位尼(平時子)が「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と安徳天皇を慰めたことは、『平家物語』の悲哀として知られています。平家の武将たちも入水しましたが、棟梁だった宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを捕らえられたそうです。壇ノ浦の戦いで没した平家一門は、壇ノ浦を見渡す赤間神宮に祀られました。

平家の敗因、源氏の失敗

平家の敗北の原因は、清盛の死や潮流の変化だと考えられています。清盛の死後、平家の棟梁となったのは清盛の息子・宗盛で、壇ノ浦の戦いではその弟・知盛が指揮をとっていました。清盛は頼朝が挙兵したころに死去しており、以降の平家は衰退の一途を辿りました。また、壇ノ浦の戦いでは序盤こそ有利だったものの、潮流の変化にうまく対応できませんでした。対する義経は、柔軟な戦い方を得意にしていたこともあり、素早く状況に対応したといえるでしょう。

一方、源氏は勝利したものの、ある失敗をおかしています。朝廷は三種の神器を取り戻そうとしていましたが、源氏はそのうち草薙剣だけは見つけられませんでした。草薙剣は二位尼が腰に差して沈んだといわれ、所在は現在でも不明となっています。

戦後とその影響

壇ノ浦の戦いは源氏の勝利に終わりました。この合戦の勝敗はその後にどのような影響を与えたのでしょうか?

源頼朝と源義経の対立が激化

戦後、範頼は九州に残って戦後処理を行い、義経は捕虜を連れて京都に凱旋しました。後白河法皇は義経と配下の御家人たちを任官させましたが、頼朝はこれに激怒し義経らの鎌倉入りを拒否します。さらに景時が戦中の義経の勝手な振る舞いと専横を訴える書状を出したため、頼朝の怒りはさらに増大しました。

こうして義経と頼朝の対立は強まり、義経は頼朝追討の宣旨を得て挙兵するも失敗。今度は頼朝が義経追討の宣旨を得て、奥州藤原氏のもとに逃亡していた義経を自害に追い込みました。

平家一門は滅亡したといわれるが……

長きにわたる平家との争いに勝利した頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させました。一方、平家一門は壇ノ浦の戦いで滅亡したとみなされていますが、生き残りの平家が日本各地で潜伏生活を送ったという落人伝説も残されています。

戦地は「壇ノ浦古戦場跡」に

壇ノ浦古戦場跡と源義経・平知盛の像

壇ノ浦の戦いの舞台となった地は、現在「壇ノ浦古戦場(みもすそ川公園)」として遊歩道が整備されており、園内には義経・知盛の像のほか、「安徳帝御入水之処碑」も建てられています。この地は江戸時代に幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもあり、壇ノ浦の戦いから約680年後、明治維新の舞台の1つになりました。

壇ノ浦の戦いにまつわる伝承

治承・寿永の乱の最後となった壇ノ浦の戦い。この戦いにまつわる伝承をご紹介します。

源義経の「八艘飛び」

すでに勝敗が決したとき、平家の猛将・平教経は敵の大将である義経を道連れにしようと義経の船に乗り移りました。このとき義経は、教経の猛攻を避けながら船から船へと飛び移り、八艘も逃げ去ったといいます。この伝説は、義経の「八艘飛び」として知られています。

平教経の妻は「海御前」に?

福岡県宗像郡や北九州市門司区には、海の妖怪で河童の女親分という「海御前」の伝承があります。これは、壇ノ浦の戦いで敗れた平家が入水した際、教経の妻(母親という説もあり)が福岡まで流れ河童に化身したものだそうです。この伝承の名残から、門司港地区には教経の妻を葬ったという「海御前の碑」が建てられています。

平家が終焉し、源氏の時代が幕を開けた

以仁王の挙兵から長らく続いた平家と源氏の対立は、壇ノ浦の戦いで終わりを告げます。この戦いにより平家は終焉を迎え、25年にわたる平家政権が幕を閉じました。そして新たに源氏による武家政権が始まります。これは、徳川幕府が大政奉還するまでの約700年間の武士の時代の幕開けでもありました。

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