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【 本当はいい将軍だった!? 】徳川綱吉と「生類憐みの令」

江戸幕府5代将軍・徳川綱吉といえば「お犬様」、さらに「生類憐みの令」を思い浮かべる人も多いと思います。特に「生類憐みの令」は過酷な悪法とされ、そのまま綱吉の悪評につながっていますが、最近の研究では見直されているようなんです。本当はいい将軍だったかもしれない!?綱吉の真相に迫ります。

徳川綱吉像
(徳川美術館蔵)

綱吉の善政:天和の治

延宝8年(1680)5月、5代将軍になった綱吉は、早速、4代将軍家綱の時代に下落した将軍権威の向上に努めます。家綱は政務を老中らに任せ、「左様せい」で決裁していたことから、「左様せい様」という異名が付けられたといいます。

綱吉はまず、自分の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老に任命し、諸藩の政治を監査。さらに、勘定吟味役を設置して、身分が低くても有能な者を登用します。

また、戦国の殺伐とした気風を排除し、徳を重んじる文治政治を推進。
儒学者である林信篤と討論を行ったり、儒学の経書である四書や易経を幕臣に講義。さらに学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど、学問好きでもありました。

綱吉によって建立された湯島聖堂の孔子廟(東京都文京区)。

これは、父である家光が綱吉に儒学を教えたことが影響しているといわれています。綱吉のこうした姿勢は、今後の幕府を支える新井白石荻生徂徠らの学者を輩出するきっかけにもなりました。
このように、綱吉の将軍としての前半は善政として、「天和の治」といわれています。

綱吉の悪政:「生類憐れみの令」!?

貞享元年(1684)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるという事件が起こります。これ以降、綱吉は大老を置かず、側用人の牧野成貞柳沢吉保らを重用し、老中などを遠ざけるようになります。

そして、綱吉を有名にさせた「生類憐みの令」が、貞享2年(1685)から始まりました。実は、「生類憐みの令」とは一本の成文法ではなく、135回も出された複数のお触れの総称なんです。何度も発せられたのはやはり、出しても守られなかったからだそうですが…気持ちはわかります。

最初は、“殺生を慎め”という訓令的なお触れだったのが、徐々にエスカレートしていき、犬、猫、鳥はもちろん、魚や貝、虫にまでおよんだそうです。

中野区役所(東京都中野区)前にある犬屋敷跡。
最盛期はこの辺りを中心に、東京ドーム約20個分の広さだったとか…。

この「生類憐みの令」ですが、発布するに至っては諸説あります。
もっとも有名なのは、母である桂昌院の勧めによるもの。綱吉に跡継ぎがないことを憂いた桂昌院が、親しくしていた隆光僧正に相談した結果といわれています。さらに、綱吉が丙戌年生まれのため、特に犬を保護したとするもの。また当時は捨て子が多く、その対策から始まったとする説もあります。

宝永6年(1709)の綱吉の死後、早速、犬小屋廃止の方針などが公布され、多くの規制も順次廃止されましたが、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護などは継続されました。

見直され始めた綱吉の評価

綱吉については、価値の低い史料によって誇張されていた部分もあり、最近では特に政治面での再評価が始められています。
特に、江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」と残したそうです。

また、綱吉の治世下は近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期。好景気の時代に優れた経済政策を執っていたとの評価もあります。さらに、「享保の改革」を行った8代将軍吉宗も、綱吉の天和令を「武家諸法度」として採用しています。

「天和の治」をおこなった綱吉に対して、
敬愛の念を抱いていたという徳川吉宗。
(德川記念財団蔵)

その一方、綱吉の時代は元禄8年(1695)頃から始まる奥州の飢饉、元禄16年(1703)の元禄地震、宝永4年(1707)の富士山噴火など、天変地異が立て続けに起こった時期。当時は、主君の徳が無いために「天罰」が起きたと捉える風潮が残っており、これも綱吉の評価を悪くしたのではないかといわれています。確かに今では考えにくい話ですよね。

徳川将軍の中で、トップクラスの知名度を誇る綱吉ですが、良くも悪くも「生類憐みの令」のおかげ?かもしれません。戌年の今年、綱吉について、改めて考えてみてはいかがでしょうか?

(編集部)

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